日本最古かもしれない池と、消えた洞窟 蛙股池とあやめ池神社を歩く

日本最古かもしれない池と、消えた洞窟 蛙股池とあやめ池神社を歩く

🦌 奈良県の史跡

今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。
日本史ランキング  ブログランキング・にほんブログ村へ

今、絶賛、橋の建て替え中。

直線の仮設橋の向こうでは、新しい橋の工事が進められている。工事中の橋を見ると、太鼓橋をひっくり返し、それをいくつも繋げたような形に見える。

あんな何回もうねった橋、面白そうだから渡ってみたい☆
2028年の完成が待ち遠しい!

……って思ったけれど。

実際あんな形だったら、谷になった凹み部分に雨水が溜まり、雨のたびにプール状態だ。排水溝をつければいいのか。でも、体の不自由な方やご高齢者には不親切すぎる形状である。

市のHPを見ると、橋の完成イメージ図が載っていた。
真っすぐで、平らで、すらっとした普通の橋だった。
ちょっと残念だけど、ちょっとホッとした。

仮設橋の両端には、工事の優しい警備員さんが立っている。橋には救命用の浮き輪が等間隔に設置されている。今の時代はとても恵まれているんだなぁ、と身に染みる。

『蛙股池とあやめ池神社の誕生』によれば、昭和41年9月に鉄筋の橋ができるまでは、老朽化して穴だらけになった橋を、人々はビクつきながら渡っていたという。

この蛙股池の手前には、池で亡くなった犠牲者を供養するため、昭和30年に建立された小さくて可愛い地蔵尊がある。毎年、供養が行われているそうだ。

そんなに亡くなった人がいるのだろうか……。なんだか怖くなってきた。

池の周囲は、安全対策のためだろうか、ぐるっと細かい目の金網で囲まれている。小雨が降る池ってなかなか素敵なのだが、金網越しにしか見られないのは、とっーーーても残念だ。

だが、仮設橋の上からは蛙股池を金網なしで眺めることができた。
「秋祭り あやめ池神社」の旗がいくつもたなびいている。

池には水鳥が浮いている。眺めていると、その水鳥が突然水の中に消え、不安になった頃にまた水面に出てきたりする。たまに大きな黒い鳥が数羽いっせいに飛び立ったりもしている。

風情がある。
池の水もとっても綺麗だ。

だが、『蛙股池とあやめ池神社の誕生』によれば、平成元年(1989年)に下水道が完備されるまでは、周囲の汚水がそのまま池へ流れ込んでいたという。

その臭気はかなり酷く、苦情も絶えなかったそうだ。夏には赤潮が発生し、魚が呼吸困難になって水面に浮かび、口をパクパクさせていることもあったらしい。

今の澄んだ池からは、なかなか想像できない。

戦時中には、奈良師団が船を使った訓練を行う場所として使われたこともあったという。

そしてこの蛙股池。
堤防の強化や清掃などのため、池の水をすべて排水することもあるらしい。その際、いつの時代のものかは分からないが、池底から一隻の船の残骸が出てきたこともあるという。

なかなかにホラーな池である。

ここで少し話を大きくする。
そもそも古いダムというのは、世界ではいったいどれくらい古いのだろう。

現存するダム遺跡として世界最古級とされるものに、古王国時代前期、紀元前2700〜2600年頃のエジプトに造られたサド・エル・カファラ(「異教徒のダム」)がある。約10万トンもの石を用いた石積み・盛土式のダムである。

そして日本。
『ダム総覧』では、この蛙股池の築造年を162年としているという。

もし本当に162年に造られたのであれば、とんでもなく古い。ただし、この年代は池の堤や樋を科学的に測定して導き出された数字ではない。

一方、大阪府の狭山池は616年に竣工したとされ、木樋の年輪年代測定という物的根拠がある。この点では、年代の裏付けの強さが蛙股池とはまるで違う。

さらに『日本書紀』推古天皇15年(607年)の条に「菅原池を作る」という記述があることから、「この菅原池こそ蛙股池ではないか」という説もある。

そのため、「蛙股池は日本最古のダム」とする話も広く流布している。
しかし、菅原池=蛙股池であることを直接示す証拠があるわけではない。

そして162年説に従うなら、そもそも推古天皇の時代とは大きくずれる。この年代を記紀の紀年に当てはめれば、成務天皇の時代にあたることになる。

つまり、162年説と607年の菅原池説は、同じ話ではない。
本当のところは、全くもって真偽不明である。

まぁ、とにかく古い池ではある。

『蛙股池とあやめ池神社の誕生』によれば、この辺りは奈良朝時代から花菖蒲の名所として知られ、当時の人々が風流な舟遊びを楽しんだ場所だったという。

だが、都が奈良から移ると次第に忘れ去られ、やがて灌木と雑草だらけの寂れた土地になっていった。

しかし、蛙股池って変な形だ。上空から見ると「く」の字型に折れ曲がっている。丘陵の谷を堤でせき止めて造られた池なので、もともとの谷が曲がっていた結果、池も必然的に曲がった形になったようだ。意図的に「く」の字型にしたわけではないらしい。

仮設橋を渡ると「あやめ池神社」がある。
小さな神社だけれど、綺麗に手入れされている。

向かって右側に鎮座する狛犬さんは、前、左横、後ろから見ると可愛い。
なのに、右側から見ると急に憤怒の表情になって恐ろしい。
見る角度で人格が変わる。

手水舎には水が蓄えられていたが、流水は流れていなかった。
節約のためだろうか。裏の下方には蛇口がついていたので、ひねれば出てくるのかもしれない。

朱塗りの本殿が奥にあり、屋根付きの拝殿の手前には御賽銭箱が置かれ、本坪鈴が吊り下げられている。

拝殿を見ると、その床を突き破るように一本の木が聳え立っている。その木には、紙垂のついた注連縄が飾られていた。

そして「防犯カメラ作動中」の看板。なかなか警戒が感じられる。

朱塗りの本殿は、小さいながらも青・白・黄色でちょっとお洒落に装飾され、白象さんまでついている。龍が描かれている部分もあった。

金具は金色。

小さくても綺麗にして、ちゃんとして、頑張っている感じがして微笑ましかった。

ふと社務所を見ると、中には神主さんの格好ではなく、私服姿の年配男性がいた。しかも、身を乗り出すようにしてこっちを見ている。

あの「防犯カメラ作動中」の看板といい、見慣れないよそ者が社に危害を加えないか監視されているような気がして、ちょっと怖い。

御守とか売ってるかな~、と覗いてみる気すらなくなり、その場を退散した。

神社手前の蛙股池沿いには、細い道がある。
ここは金網がなく、池を直接眺めながら歩ける気持ちの良い小道である。

このあやめ池神社は、地元の人々が灌漑用として池を造った際、池の守り神として市杵島姫命(弁才天)を祀ったのが始まりだと伝えられている。

ただし、それがいつ頃のことなのかは分からない。

神社として形になっていくのは17世紀の元禄期。Wikipediaによれば、喜光寺の鎮守である菅原天満宮の境内社として祀られるようになり、その後19世紀に現在地へ移転。昭和2年には、あやめ池遊園地の開設に合わせて社殿が造られたという。

しかし戦後、神社は荒れ果てた。

周囲には木々が生い茂り、小さな祠はその中に埋もれ、無残な姿になっていたらしい。地元の有志が再建を試み、昭和23年頃にはいったん復興した。ところが、それも2、3年で再び寂れてしまう。

しまいには暴走族のたまり場になるなど、なかなかファンキーな場所となったようだ。

『蛙股池とあやめ池神社の誕生』によれば、それでも有志たちは諦めなかった。地元の有力者にも資金調達を頼み、なんとか立派な神社を建造。

昭和55年頃になると神社として広く知られるようになり、菅原道真と野見宿禰も合祀された。昭和61年頃からは玉垣も造られ、現在のような姿へ整えられていったという。

こういう経緯を知ると、さっき社務所からこちらをガン見していた年配男性の姿も、少し違って見えてくる。あれは単に怪しいよそ者を監視していたのではなく、長い間、荒廃と再建を繰り返してきた小さな神社を、今度こそ守ろうとしているのかもしれない。そう考えると、ちょっといじらしい。

そして最後に、一つ不気味な話がある。
あやめ池神社から約130メートル、徒歩1分ほどの場所に小学校がある。

『蛙股池とあやめ池神社の誕生』によれば、神社と小学校の間あたりには、昭和39年頃まで大きな洞窟が存在していたという。現在、その洞窟は破壊され、埋め立てられて残っていない。

入口から約50メートル、人が四つん這いにならなければ通れないような細い穴が続き、その奥には、人が立てる程度の高さを持つ狭い空間が造られていたという。

そして、その壁には仏様が彫られていた。

少なくとも、私には防空壕としては使い勝手が悪すぎるように思える。
修験者や山の行者などが籠もる岩屋だったのだろうか。

だが、本当のところは分からない。

何のために、誰が造ったのか。今では誰にも分からない洞窟。でも、ここにはかつて確かに人がいて、誰かがこの暗い穴の奥に仏を彫った。
さて、その人は、こんな池のほとりで一体どんな一生を送った人なのだろう。

*参考文献:あやめ池神社奉賛会編『蛙股池とあやめ池神社の誕生』あやめ池神社奉賛会、1994年

Googleマップ:蛙股池
読んでくれてありがとう!面白かったら、下のボタンで応援してね。励みになります。
日本史ランキング  ブログランキング・にほんブログ村へ

Tags:

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です