行基終焉の地・喜光寺――「試みの大仏殿」と蓮の寺を歩く

行基終焉の地・喜光寺――「試みの大仏殿」と蓮の寺を歩く

🦌 奈良県の史跡

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青空によく映える朱塗りの南大門。2010年に450年ぶりに復興されたというだけあって、まだ新しくピカピカ☆

その両側を守る仁王像には、思わず圧倒された。像の全身から熱いエネルギーがほとばしり出ているようで、まるで生きていて今にも動き出しそう! しばらくその場に立ち尽くし、見入ってしまった。

後から知ったが、この仁王像は、100歳になっても制作を続けている、日本を代表する具象彫刻家で文化勲章受章者の中村晋也氏の作品だった。

南大門に立ち、風に揺れるひらひらとした垂れ幕の向こうを覗くと、喜光寺の境内が広がっている。

そして驚いたのが、門に掲げられた立札。

「大人500円、小人300円の拝観料は境内奥の本坊にて頂戴いたしております」

えっ、拝観料は一番奥で払うの? 人を信用しすぎているというか、善の観念の塊というか、なんていうか(笑)。

本堂と左手の仏舎利殿へ続く参道の周囲には、丸い鉢がいくつも並べられていた。

喜光寺は、近年では「蓮のお寺」としても知られている。長い年月をかけてさまざまな品種を集め、大切に育ててきたそうだ。夏には約80種250鉢もの蓮が境内を彩り、その光景はまるで極楽浄土のようだという。

かつては廃寺寸前と言われるほど荒廃していたが、1990年に住職となった薬師寺の山田法胤長老らの尽力によって復興が進められた。蓮の栽培も、その復興を支えた取り組みの一つだった。

参道の先に堂々と構えているのが、重要文化財の本堂。遠目からでも圧倒的な存在感がある。まさに威風堂々!

喜光寺の本堂は、東大寺大仏殿の約10分の1の規模といわれ、東大寺造営の際に参考にされたという伝承がある。そのため「試みの大仏殿」とも呼ばれている。

しかし、この呼び方、ちょっとイラっとくる(笑)。

まるで東大寺大仏殿を建てるために、最初から試作品として喜光寺本堂を建てたかのように聞こえるからだ。

実際には、喜光寺は大仏造立の計画より20年以上も前に創建されている。もちろん、先に建てた建物が後の建築の参考になることはあるだろう。しかし、喜光寺には喜光寺自身の長い歴史があるのだ。

1175年に成立した『行基年譜』によれば、721年、寺史乙丸という人物が自分の邸宅を54歳の行基に寄進し、翌722年2月10日に工事が始まったと伝わる。

行基は、この菅原寺を大和国での布教活動の拠点とした。

717年には朝廷から活動を問題視され、弾圧を受けていた行基。その後、731年ごろから朝廷の姿勢は軟化していくが、厳しい監視の目を向けられていた時期にも、民衆のために活動を続けていた。

行基は近畿地方に喜光寺を含む49の寺院を建立し、全国では約600もの寺院の建立に関わったとも伝えられている。

さて、改めて本堂を眺めてみる。

一見すると二階建てのように見えるが、実際には一層の建物で、屋根の下に「裳階(もこし)」と呼ばれる庇がぐるりと取り付けられている。

寄棟造の大きな屋根は、軒先の反りに威厳と優雅さが感じられる。軒裏には細い垂木が二段にびっしりと並び、太い丸柱と組物が重厚な屋根を支えている。

そして、軒先にずらりと並ぶ軒丸瓦には「菅原寺」の文字。少なくとも、私が見た範囲ではすべてに刻まれていた。

1499年に火災で焼失し、1544年に再建された現在の本堂は、高さ約17メートル。発掘調査などから、創建当時の本堂はさらに大きかったと考えられている。

室町時代の再建ながら、裳階や南庇など、奈良時代の建築様式を意識した復古的な造りになっている。格子状の窓や年月を経た木の扉にも、何ともいえない風情がある。

本堂には「菅原寺」と書かれた木札が掛けられている。

もともと菅原という地に建てられた寺なので、菅原寺。しかし、寺伝によれば748年、聖武天皇が行幸した際、本尊から不思議な光が放たれたという。天皇はこれを喜び、「喜光寺」の寺号を与えたとされている。

現代人の私は、後からしゃしゃり出てきて勝手に名前を変えるな! なんて思ってしまうけれど(笑)、当時の価値観では、天皇に認められた寺という大変ありがたい話だったのだろう。

かつて「小僧行基」と呼んで警戒していた朝廷が、やがて大仏造立への協力を求め、745年には行基を大僧正に任命。ついには天皇自ら寺へ足を運ぶまでになった。

行基、ものすごい逆転劇である(笑)。

さて、本堂の戸は開け放たれており、おまけに監視員も誰もいない。時間を気にせず、心ゆくまで鑑賞できるのがありがたい。

見上げると、細かく格子状に組まれた天井と、規則正しく配置された木材の梁が美しい。

中央には、金色の光背がまぶしい阿弥陀如来坐像。木彫りの表面に漆を塗り、その上から金箔を貼ったものだ。

なんとも穏やかで、心が落ち着くお顔だなぁと見惚れていたら、説明板に定朝の流れをくむ仏師の作風と書かれていた。

さすが、当時の貴族たちから「尊容満月のごとし」「仏の本様」と絶賛された定朝。その優美で穏やかな作風を受け継いでいるだけのことはある。

両脇には、一段下がって観自在菩薩と勢至菩薩が鎮座している。どちらも微笑んでいるように見えて、とても和み系である。

さらに、本尊の周囲には雲に乗った雲中供養菩薩像が14体。2026年3月に新たに6体が奉納されたばかりだ。

楽器を奏でる姿など、どこか楽しげな菩薩たちが浄土の世界を演出している。

堂内の高い位置には連子窓が設けられ、柔らかな光が差し込んでいる。季節や時間帯によって光の入り方が変われば、仏像たちもまた違った表情を見せてくれるのかもしれない。

本堂の背後には、小さな可愛らしい弁天池がある。池には橋が架かり、その先に小さな弁天堂が建っている。

堂内には、これまた小さくて可愛らしい弁財天像。その隣には、顔も手もいくつもある、なんとも不思議な像が祀られていた。

そして「防犯カメラ作動中」のプレート。

こんな静かなお堂でも、悪さをする人がいるのだろうか。

喜光寺の弁天堂には、鎌倉時代に西大寺の叡尊上人が祀ったと伝わる宇賀神像もある。老人の顔に蛇の身体を持つという不思議なお姿で、普段は非公開。毎年、期間を限って開扉されている。

境内の一番奥まった場所にあるのが本坊。ようやく拝観料を納める場所に到着した(笑)。

本坊ではパンフレットや書籍、グッズなども販売されていた。

ふと見ると、枯れた蓮の実が何本も置いてあり、「ご自由にお持ちください」という趣旨の案内があった。

手に取って眺めていると、上品な年配の女性職員さんがやって来て、「状態がいいのを持ってくるね」と奥へ消えていった。

しばらくすると、立派な蓮の実を数本持ってきてくださった。

振ってみると、中に入っている種がカラカラと音を立てる。蒔けば芽吹くこともあるらしい。

さらに、「行基好き?」と聞かれたので頷くと、「行基さん大感謝祭」のチラシもくださった。

そうか、ここは行基が創建しただけではなく、最期を迎えた寺でもあるのだ。

境内には、2014年に建立された行基堂がある。

朱色がまぶしい小さなお堂には、黄緑の外枠に赤い縁取り、青い背景に金文字で「行基堂」と書かれた実に華やかな額が掛かっている。

人々の心に光と希望を灯し続けた行基に、ぴったりなのかもしれない。

堂内も明るく、白地に淡いピンクや緑の花模様が描かれた天井が可愛らしい。

中央には行基像が鎮座している。

職員さんによれば、「このお寺で亡くなったから、行基像は怖い顔をしている」とのこと。

確かに、なかなか厳しい表情だ。けれど、怖いというより凛々しい。

生涯を通して民衆のために奔走し、朝廷の弾圧にも屈しなかった行基。その意志の強さが表れているように感じられる。

この像は、鎌倉時代に制作された唐招提寺所蔵の行基像をもとに、1998年に制作された複製品だ。

まだ30年も経っていないのに、ところどころ表面の色が変わり、剥がれている部分も見られた。

行基像の周囲には、喜光寺にゆかりのある仏師たちが奉納した、手彫りの地蔵菩薩像が500体も並んでいる。金色に見える小さなお地蔵さまたちがずらりと並ぶ光景は壮観だ。

行基は749年2月2日、この喜光寺の東南院で82歳の生涯を閉じた。東大寺の大仏開眼供養が行われる3年前のことだった。

そして現代。

毎年開催される「行基さん大感謝祭」では、喜光寺から行基像をお借りし、御輿のように担いで東大寺へ向かう。

行基は晩年、大仏造立に尽力したものの、その完成を見ることなく亡くなった。

そこで現代の人々が、行基像を東大寺へ運び、生前には実現しなかった大仏との対面を果たしているのだという。

なんとも粋な計らいではないか。

学生時代、「一人の人の生き様は大きな波紋となって、後世にも影響を与え続ける」と書いたことがある。

あれから1300年近く。

行基の生涯が生み出した波紋は、いまだに人々を動かし続けている。

まったく、とんでもない人だ。

Googleマップ:喜光寺
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