🍁 京都府の史跡
今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。御香宮神社の表門のすぐそばに、上に尖った槍みたいのがついている閉ざされた鉄の門がある。門は細かな金属柵でできているため、閉ざされてはいるものの、中を見渡すことはできる。なかなかに広い敷地で、綺麗に手入れもされてある。
門の両脇には、丸々とした狛犬が中を守っている。巻いたたてがみ、ギョロっとした目、牙むき出し。ちょっと迫力があるが、でもどこか愛嬌があって妙に可愛い狛犬たちだ。
ここは、『伏見義民事蹟』である。

伏見奉行所の小堀政方は、天明の飢饉で民衆が困窮する中、伏見の町民から御用金を不法に徴収するなど数々の悪政を行った。
1785年、これに耐えかねた伏見の町年寄・文殊九助と丸屋九兵衛が、小堀政方の悪政を寺社奉行・松平伯耆守に直訴した。その後、この2人を含む7人が事件に関わった者として調べられた。残る5人は、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛である。
屋号を見ると、当時の商いが透けて見えるのが面白い。
さて、伏見の町年寄たちの訴えは取り上げられ、小堀政方は伏見奉行を罷免された。

しかし、目出度しめでたしとはいかなかった。当時、正規の手続きを飛び越えて上級の役所へ直接訴える越訴は、原則として禁じられていた。
その後、7人は京都町奉行所や評定所で長い審理を受けることとなった。
これはどうみても無理だろう。手順としては最初に伏見奉行所に訴えなければならないが、なにしろ訴えたい相手がその伏見奉行所自身なのだ。まともに取り合ってもらえるとは、とても思えない。
審理が長引く中、7人は次々と病死・牢死し、最終的に誰一人生きて判決を聞くことができなかった。

天明8年(1788年)5月、7人には『御構いなし(処罰しない)』との裁定が出た。死後に義民として顕彰された。
だが、命は帰ってこない。死んでしまった後に義民扱いされても…これが『天明伏見義民事件』、いわゆる伏見騒動である。
一方、伏見奉行所を罷免された小堀政方はというと、1788年、小室藩小堀家は改易され、政方は小田原藩主・大久保忠顕に預けられた。
その後の政方は、茶人として活動した。『喫茶式』や『数寄記録』を書いたりもして62歳の生を全うした。

その後、小堀家は、政方の直系は途絶えたが、1828年には小堀一門の別系統が幕臣として取り立てられ、小堀家の名は再興された。小堀家としては、目出度しめでたしである。
ちなみに、小堀政方は、あの小堀遠州の子孫である。綺麗さびの美意識を築いた文化人の血筋から、伏見町民を苦しめたこんなのも出てくる。
名門だの血筋だのとは、案外そんなものである。
違法な御用金に苦しむ町民のため命懸けで訴えた7人は、誰一人生きて判決を聞くことができなかった。それでも死後、彼らは「義民」と呼ばれた。
いや、義民なんて立派な名前より、生きて家に帰してやってほしかったよなぁ。








コメントを残す