公慶上人と東大寺勧進所――雨の日の特別開扉

公慶上人と東大寺勧進所――雨の日の特別開扉

🦌 奈良県の史跡

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東大寺の西側にある勧進所。普段はかたく門が閉ざされていて、中に入ることができない。だが、一年に一度、10月5日の数時間だけ特別開扉される。

今年は雨が降っていたが、なかなか多くの人が訪れていた。こんなに公慶に興味のある人がいるのか、と意表を突かれた。

800円の入堂料を払い、中に入ると芝生が広がっている。大きな鐘と、今は使われていなさそうな古い井戸。そして公慶堂。こじんまりとして可愛い御堂だが、屋根の細かい装飾などはかなり凝っている。

公慶堂は、公慶の死後、大仏殿の屋根が見える場所に、弟子の公盛が建てたものだ。

堂内には公慶上人の坐像が祀られている。

高さは80cmくらいだろうか。しかし、実際には69.7cmだという。私は目分量には自信があったのだが(笑)。

像の公慶上人は、とても優しい眼をしていた。そして、まるで生きているみたい。

ちょっと独特だと思ったのは、目の位置が中央寄りだったこと。こんな顔だったのかな? そして左目の白い部分が赤かった。充血??

実はこの像、公慶をよく知る弟子が顔の制作に関わっており、当時から生きているようだと評されていたらしい。そう聞くと、なおさら本人に会っているような気持ちになる。


雨ざらしの大仏を救った公慶

東大寺の大仏は、平安時代末期に平氏によって焼かれた後、朝廷の支援を受けた重源によって復興された。

しかし1567年、戦国時代の兵火によって再び大仏殿が焼失し、大仏も被害を受けてしまう。

その後、胴体などは修復され、頭部には木製銅板張りの仮の頭が取り付けられた。大仏を覆う仮堂も建てられたが、強風によって倒壊。結局、大仏は100年近くも雨ざらしのまま放置されていた。

とはいえ、鎌倉の大仏様も野ざらしといえばそうである。

しかし、13歳で東大寺に入った公慶は、雨に打たれている大仏を見て胸を痛め、再興を志したという。

修行を積み、37歳になった公慶は、江戸幕府に大仏殿再興と諸国勧進の許可を願い出た。

勧進とは、寺院の建立や修復のために寄付を募ること。公慶は全国の家々を訪ね歩き、少額の寄付をこつこつと集めた。

1685年から勧進を始め、翌年には大仏の修復に着手。約6年にわたる修復を経て、1692年、ようやく大仏開眼供養の日を迎えた。


奈良中が大騒ぎになった大仏開眼供養

1692年3月8日から4月8日までの1か月間、大仏開眼供養の盛大な行事が行われた。

全国から大勢の人が奈良に集まり、町は大変な賑わいになったという。

当時は旅人を勝手に宿泊させることが禁じられていたが、この期間に限って奈良奉行が宿泊を認めるお触れを出した。

南大門の横には芝居小屋や珍しい動物を見せる見世物小屋などが立ち並び、まるで巨大なお祭り会場のようだったらしい。

しかも大勢の参詣者に対応するため、医師を配置した施薬所や、迷子を保護するための施設まで設けられたという。

なんだか現代の大規模イベントと変わらない。

驚くのは、その経済効果だ。

猿沢池のほとりで魚の餌を売っていた人まで大儲けしたという話がある。参詣者は東大寺だけでなく、春日大社や興福寺、唐招提寺、薬師寺など、奈良のあちこちの寺社にも足を延ばした。

唐招提寺は相当な収入を得た一方、薬師寺は商機に気づくのが遅れて、このビッグウェーブに乗り遅れたという話もある(笑)。

西大寺では豊心丹という薬も売られていたそうだ。

大仏開眼という宗教行事が、奈良の町全体を巻き込む一大イベントになっていたのである。

公慶は大仏を修復しただけでなく、奈良の町そのものを大いに活気づけたのだ。

そして供養が終わった翌日の4月9日、公慶はようやく横になって眠ったという。なんと、それまでは横になって寝ることを自ら禁じていたのだ。
そこまでしなくても……。

しかし、公慶の活動はこれで終わらなかった。


今度は大仏殿を再建する

大仏の修復が終わっても、肝心の大仏殿はない。

公慶は今度こそ大仏を雨風から守るため、大仏殿の再建に取りかかった。

ところが、そのためには莫大な資金が必要だった。当初の見積もりは18万両。

以前、西山厚さんの講演で聞いた話では、公慶は東大寺の僧侶たちからも十分な協力を得られず、ほとんど一人で勧進に奔走していたという。

公慶は全国を歩いて寄付を集め、江戸にも勧進の拠点を設けた。

その後、奈良出身で徳川綱吉の側近として影響力を持っていた隆光の仲介などにより、将軍や幕府からの支援も得られるようになった。

しかし、これほどの巨大建築を再建するには、それでも資金が足りなかった。

北は青森、南は薩摩まで足を運び、資金集めに奔走する公慶。結局、当初計画していた11間×7間の大仏殿を、7間×7間に縮小することになった。

それでも、再建には膨大な量の木材と瓦が必要だった。しかも、大仏殿の巨大な屋根を支えるためには、特別に大きな梁が2本必要だった。

これが、なかなか見つからない。


巨木2本を九州から奈良まで運ぶ

各地を探した末、ようやく宮崎県の霧島山にある白鳥神社付近で、条件に合う赤松の巨木が2本見つかった。

なんと、高さ約54メートル。

そこから長さ約23.4メートルの梁材を切り出した。重さは1本が約23トン、もう1本も約20トンあったという。

これを九州から奈良まで運ばなければならない。

どうやって??

まず、宮崎県の白鳥山から鹿児島県の国分の港まで、115日もかけて人と牛の力で引いていった。この作業だけで、延べ10万人もの人と4,000頭もの牛が動員されたという。

港に到着した巨木は船で鹿児島へ運ばれ、そこから兵庫までの海上輸送を、志布志の廻船問屋、山下弥五郎が引き受けた。採算度外視、危険覚悟で名乗りを上げたという。

だが、ここで大問題が発生する。

これほど巨大で重い木材を、どうやって船に積み込むのか。頭を悩ませていたところ、弥五郎の幼い娘が夢の中で観音様から方法を教わったという。

その方法がすごい。
まず、千石船に水を入れてわざと沈める。そして沈んだ船の上に巨木を運び、潮の満ち引きを利用しながら船内の水をくみ出して、再び船を浮かべる。

そんなことができるのか!

この大胆な方法で巨木2本を船に積み込み、海上輸送に成功したというのだ。

しかも、西山厚さんの講演で聞いた話では、弥五郎の家系には、その後も代々、不思議な能力を持つ女性が生まれるという伝承があるそうだ。
話が壮大すぎる(笑)。

船で兵庫まで運ばれた巨木は、そこから大阪、淀川、木津川を経て木津へ。最後は木津から奈良まで、連日千人を超える人々が力を合わせて引いていった。

こうして白鳥山から運び出された巨木は、約8か月かけて奈良の東大寺に到着した。

今では簡単に巨大な建設機械やトラックを使えるが、当時は何もかも人と牛、そして船の力に頼っていた。

20トンを超える巨木を、山を越え、海を渡り、川をさかのぼって運ぶ。
大仏殿を建てるだけでも大変なのに、材料を運ぶこと自体がとんでもない大事業だったのだ。


完成を見ることなく亡くなった公慶

1705年、大仏殿の上棟式が行われた。
公慶は幕府に御礼を伝えるため江戸へ向かったが、滞在中に病に倒れ、7月12日、58歳で亡くなった。37歳で幕府に再興を願い出てから21年が経っていた。

公慶は1709年の大仏殿完成を見ることなく、一生を終えてしまったのである。長年の無理がたたったのだろうか。横になって眠ることすら自分に禁じ、全国を歩き回って寄付を集め続けるなんて。体あってこそだろ!と思うのだが。

しかし、公慶の死後も弟子たちがその志を受け継ぎ、1709年、ついに大仏殿の落慶供養が行われた。

公盛はさらに中門の造営にも尽力したが、西山厚さんの講演で聞いた話では36歳という若さで他界したという。随分若い死だ。師匠の公慶と同じように、体を酷使しすぎたのだろうか。

その後も公俊や庸訓らが事業を引き継ぎ、東西の回廊の整備が進められた。そして1737年、公慶の33回忌にあたる年、ようやく回廊まで完成した。
公慶が亡くなってから32年も経っている。

一人の人間が志した大事業を、その死後も弟子たちが引き継ぎ、完成させたのである。

今、私たちが見ている東大寺大仏殿は、こうした人々の努力によって再建されたものなのだ。

公慶が大仏殿を再建しようとしなかったら、今の奈良の観光はどうなっていただろう。


とんでもない髪型の阿弥陀如来

公慶堂のほかに、阿弥陀堂にも入ることができた。
中央に鎮座していたのは、五劫思惟阿弥陀如来坐像。

しかし、この像、髪型があまりにも特徴的すぎた。

長い長い年月にわたって剃髪もせず、人々を救うために思索を続けた結果、あの髪型になったという。

それにしても、やけにボリュームのあるクルクルパーマのおかっぱ。
これは変すぎる。どんぐりの帽子部分の巨大化? 座敷童の髪の毛爆発版?

穏やかな顔をしていて、見ているととても落ち着くのだけれど、髪型が変でどうしても笑ってしまう。笑わせることで人々を救い、心に安らぎを与えているのだろうか??

阿弥陀如来坐像の周囲には4体の像が安置されていて、如来を護っている。そのうち、向かって左手前にいる像は、なぜか顔が真っ赤っ赤だった。
なぜ?


まるで現代につくられたような国宝

八幡殿にも入ることができた。
ここには国宝の僧形八幡神坐像が祀られている。この像は、平氏による焼き討ちで失われた御神体を、重源が快慶に依頼して新たにつくらせたものだという。1201年、鎌倉時代の作品だ。

しかし、実物を見ると驚くほど若々しく、生命力にあふれていた。衣服には美しい模様や彩色が残り、まるで最近つくられた新しい像のように見える。800年以上も前のものとは、とても思えなかった。

そして、ふと供え物に目をやると、お煎餅や梨、お菓子などが置かれていた。そこまではわかる。

だが、なぜか旭松食品の箱入り高野豆腐が供えられていた。
なぜ高野豆腐??しかも箱入り。
いくら神でも、あのまま食えんだろ(笑)。


かつて公慶がいた場所

すべて見終わり、傘をさして門を出た。
振り返ると、門には「東大寺勧進所」と書かれた木札がかかっていた。

ここは、かつて公慶が一院を建て、大仏と大仏殿を復興するための寺務所として使っていた場所だという。

あの公慶が、ここにいたのか。弟子たちと相談したり、各地への勧進の準備をしたり、大仏殿の完成を夢見ながら日々を過ごしていたのだろうか。

今から320年以上も前、この場所で公慶や弟子たちが活動していた。
そう思うと、なんとも感慨深かった。

Googleマップ:公慶堂
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