乙訓寺の怪 ―消えた牡丹と暴走する人類―

乙訓寺の怪 ―消えた牡丹と暴走する人類―

🍁 京都府の史跡

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乙訓寺は牡丹の名所だときく。しかも4月中旬からが見ごろだという。たしか去年の梅雨頃から密かに楽しみにしていた。そして、ちょうど4月中旬、そう、17日に用事があり近くに行くので、寄ってみることにした。

「弘法大師ゆかりの寺」って刻まれた大きな石碑と、元禄8年に建てられた赤い表門。立派で綺麗。門の先は一直線の参道。平日だからか静かなお寺で人もいない。木と雑草の緑色に救われる気がするがなにも植わっていない花壇が少し寂しい雰囲気。
満開だと聞く牡丹の花はもっと奥にあるのだろう、とワクワクして進んだ。

「日限地蔵尊」と書かれた御堂があり、なんと巨大草鞋がかかっていた。ガンダムとかが履く位のサイズの草鞋だと思う。なんでも、この草鞋、大きければ大きいほどいいらしい。このお地蔵さま、「自分で日数を決めて毎日お参りすると願いが叶う」という御利益がある。巨大草鞋は信者さんが奉納したもの。足腰が良くなりますように、地蔵さんが遠くまで歩いて来て願いを叶えてくれますように、みたいな。

でも、なんかお地蔵様気の毒。草鞋つくったからこれ履いて歩いて願い叶えにこいや!って人間ってどんだけ自己中なんだろう。しかも多くの人がそれぞれ好き勝手に願い叶えて♪叶えて♪って依存してくる。しかも地蔵様だけではない。境内にはびっしり書き込んだ願いの札・絵馬がカラカラ揺れている。神様ってのはどんだけブラック企業なんだろう。

堂内はいろいろな家紋が書かれた板、名まえの書かれた提灯なんかも沢山つるされてあった。なんでも願いがかなった人が奉納したものだという。感謝の気持ちなのだろうけれど、どうしても「今後ともよろしく!!次も予約なっ!」って意味で奉納したんだろうなぁって思えてしまった。

乙訓寺は聖徳太子が開いたとか、継体天皇の弟国宮(乙訓宮)の跡地とか伝えられている。
しかし現在の境内は驚くほど小さい。そして、牡丹の影もなかった。蕾すらない。あまりにも不思議だった。

ここに早良親王が幽閉されていたのかと気の毒になるが、長岡京の鎮守寺、京内七大寺の筆頭として桓武天皇が大増築した頃の乙訓寺は、現在の境内のおよそ6倍の広さだったと言われている。

乙訓寺での幽閉後、淡路への流罪の途中、無実を訴え絶食し亡くなった早良親王の御墓もあった。敷地はかなりひろくとられていて、デザイン性もありちょっと凝った感のある御墓だった。牡丹の花が咲いていればそれに囲まれて極楽浄土を思わせるような光景だったのかもしれない。

乙訓寺が大焼失したのは、16世紀の織田信長の兵火。江戸時代に綱吉と桂昌院の援助で再建されたがかなりコンパクトになった。明治の廃仏毀釈や戦後の農地改革でも更に土地を削られ現在の規模になった。

文久元年って刻まれた石槽があった。ちょうど桜田門外の変の翌年に奉納されたものだ。

隣には空海(弘法大師)像があった。安心感のある拝んでしまうような像だった。

嵯峨天皇から別当に任命された空海は、乙訓寺の伽藍を修復。翌年には最澄が、「真言の法を教えてほしい」と空海を訪ねてきた。これが二人の初めての対面。両界曼荼羅の前で密教の法論をした。

最澄は空海から経典を借りたり、弟子・泰範を預けたりして積極的な交流が続いた。最澄は密教を取り入れ天台宗へ組み込もうとした。一方の空海は「密教は正式な師弟関係の中で直接伝授されるもの」という立場。やがて両者は決別する。

私なりの乱暴な現代解釈をするなら、「無料で教わったノウハウを既存ビジネスへ転用した弟子」と「それにモヤモヤする師匠」みたいな構図にも見える。

しかしあまりにも不思議だった。牡丹はいったいどこにあるのか?? AIに「牡丹が咲いていない」と聞いてみたら、「天候によっては4月下旬から」と素っ気なく返ってきた。 期待してきたのに…ガッカリ残念感がじわり胸に広がった。

そっか時期が少し早すぎたのかなって思ったけれど、でもどうにも腑に落ちない。なにしろ牡丹らしき草すら生えていないのだから。

境内には空海が献上したという蜜柑の木や江戸時代につくられた鐘楼。他に小さな八幡社、三輪明神社もあった。

本堂の前の不動明王像はなかなか迫力があった。本尊は合体大師像、33年に一度だけ公開される。伝承によれば、空海と八幡大神二人で上下をそれぞれ彫り、ぴったりと合わさった像とのこと。空海がそう言ったと思えば何故か信じられる気がするから不思議だ。

そして毘沙門堂入口があり、御守や絵馬などが置いてあった。御朱印や御守購入などの際はインターホンで呼んでくださいと書いてあった。重要文化財の十一面観音像や木造毘沙門天立像は特別公開中だったけれど平日は残念ながら公開日ではなかった。

もしかしたら御堂の裏側とかに牡丹が咲いているのかも♪って思って覗いたりまわったり境内の隅々まで歩いたけれどやはり牡丹はどこにもなかった。

よって、秘仏もなにもみれず、牡丹も一輪もなく、すたすた歩けば5分もかからんだろ、って感じの狭い境内をフラフラし、思わず「しょぼっ」と心の中で呟きながら乙訓寺を後にした。しかし、最後まで不思議だったのが、咲く前の牡丹のつぼみどころか、どこを見渡しても探しても牡丹の茎すら地上になかったことだ。有名な牡丹の花というのは植木鉢を並べているのだろうか??

乙訓寺のHPを開いてみたら、ここ数年、牡丹が発育不良で牡丹鑑賞はできず、復興への思いは有るがハードルが高い、旨が書かれてあった。そうだったのか‥…道理で変だと思った。4月中旬なのに牡丹の影も形もないのだから。そして更に衝撃の文言が…以下、乙訓寺のHPから転載する。

”上記のような意見を表明する際、威嚇するかのように声を荒げる、暴言と受け取れる荒っぽい言葉遣い、過度な謝罪の要求等、これらは意見の表明を超えたものであり受忍できるものではございません。
何卒お控え下さいますようお願い申し上げます。”

おいおいおいおい、何があった!? マジ怖いんですけど。
皆どんだけ牡丹好きなんだよ! どんだけ必死なんだよ。
牡丹愛が暴走し過ぎている。乙訓寺が牡丹トラウマになっていないことを祈るばかりだ。

乙訓寺の牡丹は消えた。
しかし人間の牡丹愛だけは、今なお境内で暴走しているのかもしれない。

Googleマップ:乙訓寺
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