『小僧行基』から大僧正へ 山崎院跡でたどる行基の妙な人生

『小僧行基』から大僧正へ 山崎院跡でたどる行基の妙な人生

🍁 京都府の史跡

今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。
日本史ランキング  ブログランキング・にほんブログ村へ

山崎駅からほんの数分。歩道が途切れるところに、大きな木が一本立っている。そこから先は歩道のない細い道。大木の下には「山崎院跡」という石碑と小さな説明看板がたっている。

725年9月1日、行基は弟子を連れて山崎川(淀川)のほとりに来た。すると、河の中に大きな柱が一本立っていた。尋ねると、「昔、道昭が渡した橋の柱だ」と答えが返ってきた。
行基は、9月12日から山崎橋を架け始めたという。

道昭は百済系渡来人・王辰爾の子孫。653年に遣唐使で唐へ渡り、玄奘三蔵(「西遊記」の三蔵法師)に直接師事。沢山の書物を持って帰国し、日本に法相宗(唯識)を初めて伝えた。帰国後、飛鳥寺の東南に禅院を建てた。そこで学んだ中の一人が、道昭と同じ地域の渡来系ネットワークに属していた百済系渡来民族の子孫である行基だった。

道昭は、晩年、各地を巡り井戸を掘り、船を備え、橋を架けた。道昭の死後、行基は同じような社会事業をさらに大規模に展開し、やがて朝廷に認められるまでに押し広げた。行基は、橋だけではなく、院・布施屋・池・溝をセットでやった。

典:行基と山崎院ー道昭像ー

さて、ここでちょっと疑問が生じる。
725年というと道昭の死後25年。もし行基が若い頃から道昭について遊行し、橋を一緒に造っていたのならば、「この川の柱は師匠が造ったものだ」程度は知っていても不思議ではない。何故知らなかった?58歳の行基が、現場で初めて聞く、という筋は、親密な弟子としては妙に薄い。

飛鳥寺や元興寺で法相宗を学んだ時期に、高齢の道昭から教えを受けた可能性はある。が、少なくともずっと師について土木を回った直弟子ではない、というほうがしっくりくる。実際、道昭の天下周遊の時期と、行基が本格的に寺を出て動く時期はずれている。

と、なると、一般にいわれる「道昭の直弟子・行基」という関係は、実際にはもう少し複雑だったのかもしれない。少なくとも、若い頃から道昭に付き従って各地を巡った親密な師弟だった、とまで確認できる史料はない。後世の伝記の中で、道昭から行基へ社会事業の精神が受け継がれたという関係が、より明確な「師弟」として語られるようになった可能性もありそうだ。

出典:行基と山崎院

さて、川の流路は現在では当時と大きく変わっている。山崎橋の正確な位置は確定していないが、後世に建てられた河陽離宮の南門から延びる道が山崎橋へ続いていたとされ、その位置を考える手掛かりになっている。山崎橋を架けた725年、対岸に久修園院という寺院を建てた。そして、731年、山崎院をつくった。川の北と南にそれぞれ寺院を置き、橋の維持や布教、人々の宿泊・救護などを支える拠点として機能させていたと考えられる。

その出土品から、山崎院は平城京の都に負けないほどの豪華な金具や壁画で彩られ、本格的で威厳のある建築であったことが分かっている。行基に心酔した庶民・豪族たちの寄付の他に、のちに、国家レベルの資金・絵師・工芸技術が投入されたからこそ絢爛豪華なのだろう。

さて、山崎院ができる前、ここには山崎廃寺が存在していた。山崎廃寺跡からは、道昭が建てた禅院である飛鳥寺東南禅院と同笵の軒瓦や、道昭の時代を思わせる塼仏が広い範囲から出土している。これらの出土品の分布範囲から、周辺の集落や道場を含めた大規模な寺域が形成されていたと推測されている。

山崎院は、道昭が造営もしくは修造した寺を、行基が再整備したと目されている。

行基の時代、朝廷により僧侶と俗人の間は厳格に分けられていた。しかし、行基は俗人の間に積極的に入り、布教と社会活動を続けた。民衆規模に広めた行基の活動は国家権力から危険視され、厳しく批判され弾圧され続けた。弾圧されても数千人、ときには一万人規模の民衆を率い活動を続けた。

山崎橋、そして731年の山崎院造営の頃から、朝廷との関係にも少しずつ変化が現れ始める。そして晩年には、かつて「小僧」と名指ししていた朝廷が、行基を大仏造営に頼り、大僧正にまでした。聖武天皇は、行基と終日歓談したりもしている。この方針転換の派手さはなかなかできるものではない(笑)。

朝廷からすれば、勝手に民衆を何千人も集める僧など、そりゃ怖い。ところが禁止しても止まらない。それどころか橋は架かる、池はできる、人は集まる。結局、朝廷の方が「……あいつ使えるぞ」となったようにしか見えない(笑)。

出典:行基と山崎院

山崎橋が渡されていた淀川は、桂川、宇治川、木津川の3つの大きな川が合流する直後で、非常に川幅が広く、水流が激しい難所。当時の土木技術では、大きな増水や台風が来るたびに橋脚が流された。

行基が725年にかけた以降も何度か流出し、その度に修復や再建が行われた。平安時代中頃にはついに廃絶され渡舟にとってかわられてしまった。16世紀末には豊臣政権下で一時橋が復活したといわれるが、それ以降、今に至るまで再建は行われていない。自然の猛威との戦いの末に消えてしまった。

今、山崎院跡に残っているのは、大きな木と石碑だけだ。けれど1300年前、ここには橋を守り、人を泊め、工事を指揮し、仏教を説くための大きな拠点があった。

朝廷から「勝手なことをするな」と叩かれながら、橋を架け、池を掘り、人を集め続け、最後にはその朝廷から大僧正にされてしまった行基。なかなか妙な人生である。

宝積寺には、その行基の像が安置されているらしい。私は拝観時間に間に合わず実物を見ることができなかったが、写真だけは手元にある。

出典:行基と山崎院


この、ちょっと困ったような顔が妙にいい。

「最初あれだけ怒ってたのに、最後は大仏造れって言うんですか」

……そんな顔に見えて仕方がない(笑)。
行基、問答無用でしゅき💗である。

Googleマップ:山崎院跡
読んでくれてありがとう!面白かったら、下のボタンで応援してね。励みになります。
日本史ランキング  ブログランキング・にほんブログ村へ

Tags:

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です