平清盛とホームレス座敷童 ― 若一神社で考えた「都合のいい物語」

平清盛とホームレス座敷童 ― 若一神社で考えた「都合のいい物語」

🍁 京都府の史跡

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西大路駅を降り大通りを歩いてほんの数分。歩道を真ん中に挟む形で鎮座する神社がある。ずいぶんと変わった造りの神社だ。道を挟んだ両側に複数の赤い旗がたなびき、なんだかとても賑やかな雰囲気。歩道の右手には社や鳥居があり少し奥行きがある。

歩道の左手は「平清盛公御手植楠」「夫婦岩」「願かけ岩」と印字された赤い垂れ幕と、数段の階段があり高台になっている。大きな木、小さな祠、真っ赤な灯籠、石碑やらがある。ひときわ目立つのが、『世界人類が平和でありますように』と書かれた背の高い白い看板。空に向かってど~ん!と立っている。良い事言っているのだけれど、この古の雰囲気をぶち壊してしまうような現代的で場違いな看板。そしてその看板の下部に貼り紙がある。「座敷わらしさんと御一緒に」と。

樹齢800年超とされる御神木のクスノキは、清盛が、太政大臣になった感謝で植えたと伝えられている。昭和初期に西大路通を拡張する計画が持ち上がり、このクスノキを伐採・移転しようとした。すると、何故か工事関係者に事故や不幸が相次いだ。そのため、木を切るのを諦め、クスノキを避けるように道がつくられたという。

ただ、誰がどの病院に運ばれたかという公式記録はないようだし、「祟りを恐れて迂回した」という説と、「実際に事故が続いたから迂回した」という説が混ざっているようだ。御神木を伐れない空気が強ければ小さな怪我も全て祟りに回収される。何が本当なのかは正直なところわからない。


そしていつしか、清盛手植えと伝わる大楠に座敷童が居るのを見た!と噂されるようになった。なんでも何人もの座敷童が住み着いているらしい。そうか、座敷童がね…

ん?でもちょっと待て欲しい。この設定、雑過ぎないか?

そもそも座敷童といえば、家の中に現れるものではなかったか。座敷を失った童が、神社の看板用に木へ移され、夏の直射日光、冬の寒風、道路の排気ガス、大雨や雷や突風など、あのおかっぱが全部浴びている。まるでホームレスである。

しかしついに神社もこれにのっかることにした。社務所には「座敷童が宿る御神木」と書かれ、ついには授与品にまでなった。参拝者には新しい楽しみが増え、神社にも新たな名物ができる。WinWinとはこのことである。まぁこういう後付けは神社あるあるである。

さて、願かけ岩は、昭和の市電工事で本殿を移したとき、その真下にあった大きな岩が、力があると言われ信仰対象になった。夫婦岩は…大小の岩があったから夫婦円満の岩ということになったのかもしれない。もうとにかく!ここにある物全部めでたい!それでいい!そういうことだ★

さて、道路を挟んだ向かいにある鳥居をくぐり境内に入ると、平清盛像があった。背丈が低くて小さくて可愛い像だ。しかも顔はとても凛々しい。銅像なのに珍しく格好良い。こんな素敵に造ってもらえて清盛はん大事にされてまんな~と微笑ましい。

若一神社は開運出世の総氏神だ。「開運・願い文」コーナーの後には、座敷童の絵馬がたくさんぶら下がっている。座敷童の目鼻口、眉毛、髪飾りなどを自分で好きに書いていい。その顔や装飾がそれぞれ違って見ていて楽しい。そしてその裏に書かれた願い事。「仕事がみつかりますように」これはまだわかる。まだ許せる。だが、目をみはったのが、「じゅん君に会えまた付き合えますように」「宝くじ一億円当たりますように」などなど私的欲望のオンパレード。その中で「座敷童ちゃん家に来てね。待ってます。」これは可愛いな♪って思わず笑みがこぼれた。座敷童も屋根付きの家に住めたら万々歳だろう。


授与品も見ていて楽しい。私は顔も服も髪もそれぞれ違う座敷童守の中から、自分に似ている子を選んだ。妙に愛着がある。

さて、このあたり一帯は、平安末期、平清盛が造った広大な別邸・西八条殿があった地だ。かなり広大な屋敷で、 現在の梅小路公園周辺まで及ぶ規模だったとされる。社伝では、奈良時代772年、唐から来た威光上人が熊野の若一王子の分霊をこの地に祀ったのが始まりと伝えられる。その後、ご神体が土中に埋もれてしまった。

1166年、清盛が熊野詣でをした際、「土中に隠れた御神体を掘り出して祀れ」とのお告げがあった。帰京後、邸内の東方の築山から光を発する場所が見つかり、清盛が掘ると若一王子のご神体が現れた。同年、そこに社を建て鎮守社として祀ったという。

翌年、清盛が太政大臣に任ぜられたことから「開運出世」の神として信仰されるようになった。清盛は武士で初めて太政大臣になった。一武士から朝廷の最高官である太政大臣まで駆け上がった。そこまでは本当に異例だ。頂点までの速度も異常だった。開運出世の神社と言われるのももっともなことだ。

清盛の西八条殿も若一神社の社殿も、1181年、清盛の死後すぐ火事になり、更に1183年の都落ちの時に平家が自分で火をつけ当時の建物は残っていない。かつて平家一門の館が50以上も建ち並び栄華を極めたその邸宅跡に、鎮守社として残ったのが現在の若一神社だ。

狛犬さんは、首から和柄をあしらった白い垂れ物をつけてもらっている。清盛像は凛々しかったが、狛犬はすごく愛らしい。なんか笑っているような顔だ。尻尾も可愛い。

座敷童守を買う為、社務所に行った。お話を聞いていると、その中で、神主さんに、「清盛手植えの御神木のクスノキでつくった御守、これがすごく開運出世にいい」と言われた。3000円だった。高いなぁと思って流していたら、今度は1000円の、振ると上品で涼やかな音が鳴る開運招福のストラップを勧められた。座敷童守と合わせて2000円。これなら、と買ってしまった。この神主さん、なかなかのやり手である(笑)

しかし神主さんのお話を聞きながら、脳内には不思議がたちこめていた。確かにここは開運出世の神社だ。清盛が一気に上り詰めたのだから辻褄があう。だが、その約15年後、清盛は64歳で死ぬ。その後、平家も急速に傾いていく。

確かに清盛は出世した。でも、都を動かそうとして失敗した。敵を増やした。反乱の渦中で苦しみ抜き、『平家物語』では、高熱に悶絶する壮絶な最期として描かれる。一族は壇ノ浦まで転げ落ちた。滅亡した。成功した瞬間は残す。死に方、都の焼き方、福原の失敗、座敷童が後付けなこと、水で熱が治らなかったことは、授与所の棚に置かない。

参拝者も欲しがっているのは、清盛の「太政大臣まで行った部分」であって、「そのあと全部失った部分」じゃない。みんな、清盛の輝かしい一瞬だけに焦点を当てそこに期待している。

清盛も自分に都合の良い話は使っていただろう。院の武力だった家が、天皇の外戚になって、貿易で金を握って、「この家が選ばれた」という顔をする。神社も参拝者も同じことを、800年後に小さくやってる。私も3000円を断り1000円で手を打った。全部は買わない。使えるところだけ持って帰る。そういうものである。

さて、大きな給水ボトルに2つ、境内の水を持ち帰っている人がいた。若一神社には、「神供水」と呼ばれる御神体に供えている水がある。地下からの湧き水で、通年温度が変わらない水だ。開運出世の水だそうで、飲むと奇跡が起こる、との噂。新生児誕生の産湯としても使われているそうだ。

高熱を出した清盛はこの水で体を冷やしたと伝わっている。しかし、熱さましの水の主が、熱で死んだことは伏せられている。神主さんに水を勧められたし、ちょうど水筒が空だったので入れて飲んだ。普通に美味しい水だった。ペットボトル一本買うお金が浮いて儲かった♪って思った。

ここからは完全に私の脳内平家物語である。史実ではない。平家物語のその後を話そう。平家は何故滅亡したか、その種明かしの部分である。清盛の義弟である平時忠は、清盛が権勢の頂点に近いころ、傲慢にもこう言い放った。「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と。清盛が言うのならまだわかる。義弟が!である。清盛を加護していた木に住むホームレス座敷童は偶然にもその言葉を聞いてしまった。まぁクスノキに座敷童が住んでるって言われるようになったのは近年のことなのだが。そこは目をつぶってほしい。

確かに自分は妖怪だ、人ではない。でも屋内にいるから座敷童なのである。なのに座敷もない。そうかい、そういうことかいっ!!ついに座敷童はブチ切れた。それからである、平家に暗雲が立ち込め始めたのは‥‥

とりあえず全部、座敷童のせいにしておけば、清盛と平家はきれいでいられるし、何もかも都合が良い。とりあえず座敷童の家をつくってあげたほうがいい、ホームレス童ではあまりにも気の毒だ。

Googleマップ:若一神社
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