龍に食われそうな門をくぐって、親鸞と蓮如に会ってきた

龍に食われそうな門をくぐって、親鸞と蓮如に会ってきた

🌊 大阪府の史跡

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八尾での用事終わりの帰りに、ふらっと寄ってみた顕証寺。「蓮如上人御建立 久宝寺御坊 顕証寺」と刻んである立派な石碑が麗しい。信者さんだろう、自転車に乗った人がパラパラと隣の通用門みたいなところから境内の建物の中に消えていく。

毎月11日(蓮如+初代住職・実順+3代目住職・蓮淳)と27日(親鸞)には、法要が行われているという。毎月っていう情熱がすごいし、それが500年近く続いている伝統行事ってのがこれまた凄い。

軒丸瓦には、ずらーっと菊の家紋。本願寺(大谷家)は、戦国時代から公家とのつながりを強めていて、江戸時代以降も朝廷や公家との繋がりを深めてきた。顕証寺は蓮如上人の直系・連枝(本願寺一族)の別格寺院でもある。

門の繊細で力強い彫刻が見事だった。欄間の菊や牡丹の透かし彫り、梁の上の豪華な彫刻、雲龍、そして、門中央上部に乗っかって首を下に垂らしている龍。生々しくて生きているみたい。悪いことしてたら門くぐる時に食われちゃいそう。

門には、皇室由来の十六弁菊の紋と、格式高い本願寺系寺院で使われる牡丹紋。ステータスの高さをアピールしている香りが強烈に伝わってくる。
手水舎の彫刻にも惹きつけられた。龍の迫力が半端ない。これだけ圧倒される彫刻なのに誰がつくったか不明。名が残らずとも、精魂こめ納得できるよう彫っていった彫刻士の腕と情熱、技術とセンスに脱帽する。

境内はとても狭くこじんまりしていた。本堂は宝永の大地震(1707年)に倒壊。その後、寺内町の南端にあたる現在地にて再建。本堂の造営に9年、極彩色の彫刻部分にさらに9年以上かかったとされている。

顕証寺は、明応年間、浄土真宗(一向宗)を爆発的に広めた蓮如により建てられ、蓮如の11番目の息子(実順)を初代住職とし西証寺としてスタート。しかし実順は25歳で早世。跡を継いだ実順の息子・実真も13歳で死亡。

そこで、蓮如の6番目の息子・蓮淳が西証寺の住職となった。このとき蓮淳は60代後半、本願寺のトップ(10世・証如)の外祖父でもあり、また大津で超名門のお寺・近松顕証寺を経営していた。西証寺に入るとき、寺名を「顕証寺」に改称した。

しかし、蓮如って、お坊さんなのに子ども多すぎない? 蓮如は生涯で5人の妻を迎え、13男14女、合計27人の子どもをもうけた。なんと末っ子は、蓮如80歳を過ぎてからの子だというから驚きである。

浄土真宗の祖・親鸞自身、流罪を機に「非僧非俗」の立場となり、恵信尼と結婚して在俗のまま念仏の生活を営んだ 。他の宗派からみたら相当ムカついたような気がする。自分たちは我慢ばっかりしてるのにあやつらはー!!みたいな。知らんけど。

と、とにかく、蓮淳(蓮如6番目の息子)が住職になったことで、ただのお寺だった西証寺は、一気に「本願寺一族の重鎮がいる、河内でも別格の寺」へとバグレベルにステータスが跳ね上がった。周辺の寺院を取りまとめる触頭の立場も担うようになり、宗教的にも政治的にも大きな影響力を持つようになる。

戦国時代になると、お寺と信者を守るため、顕証寺を中心に東西約500メートル、南北約300メートルの敷地を、二重の堀と土塁で囲み、道路を碁盤の目のように整備した寺内町を作りあげた。これが久宝寺寺内町の原型である。顕証寺は、この町の中心に立つ寺院であり、単なるお寺というより、宗教都市の司令塔のような存在だった。

境内にはまん丸な石「意のままに願いをかなえる霊験ある珠」 宝珠がゴロゴロ転がっている。供養塔の前には宝珠をつないだデザイン宝珠まであった。とにかくまん丸で可愛いし、目にするだけで不思議なパワーがありそうな予感♪

本堂前にある手水舎は、四隅を石でできた何者か達が背負っている。なんか可哀想~、重いし永遠だし、角が尖がってるから背中痛そうだし。

本堂にあがっていいのか逡巡した。「靴は脱いでおあがりください!」って書いてある。お辞儀をしてそろそろとあがってみた。

こうなってくると、扉を開け中を覗いてみたくなるのが人情というものである。しかし、扉を開けるのはさすがにやめた。デザインといい造りといい重厚な扉だった。回廊を行けるところまで歩いてみた。幾つかの違った凝った扉が側面に並んでいる。薄い青色でおしゃれに装飾されている扉もあった。床の木板には小さく穴が開いていたり、板の隙間が開いている所もあり経年の感があった。


階段をのぼったところの板の間と一段上がったところの板の間。その段差に腰を掛けて境内を眺めた。私が門をくぐった時から既にずっと境内には誰もいない。とても静か。


ふと視線を下に移すと、ちょうど腰かけて手持無沙汰になった時にちょうど目につくドンピシャの位置の床板に、彫りこまれた落書きがあった。いつ彫られたものかはわからないが、少なくとも最近ではないようだ。江戸時代、ここに座って落書きした人を想像すると情趣溢れる。古今東西、人間のすることは大抵いつも同じで笑えてくる。


境内には、親鸞と蓮如の像があった。みた瞬間、「これ、単なるその辺にいる普通のおっさんじゃん」と思った。失礼なのはわかる。でもしょうがない。思ってしまったのだから。

浄土真宗の祖・親鸞は、下級貴族の家に生まれ、9歳で出家。比叡山で20年にわたり修行したが、煩悩を断ち切ることはできず、29歳で山を下り法然に出会った。のちに専修念仏への弾圧によって越後へ流罪となり、そこで「非僧非俗」の立場を取るようになる。

つまり親鸞は、きれいに整った聖人像というより、むしろ迷い、苦しみ、制度の外へ押し出され、それでも人びとの救いを見つめた人だった。だからこそ、貧しく、弱く、罪深いとされる人びとにも届く教えになったのだろう。

一方、蓮如はその教えを庶民に届く言葉で爆発的に広めた人物である。顕証寺の前身・西証寺は、そうした蓮如の布教の流れの中で生まれ、やがて蓮淳の時代に本願寺一族の格式を帯びた寺院へと発展していく。久宝寺寺内町は、単なる門前町ではない。農民、商工業者、土豪を含む門徒衆が結びついた、宗教都市であり、防衛都市であり、商業都市でもあった。

親鸞も蓮如も、やっていることは普通ではない。飛びぬけている。親鸞は制度の外へ押し出され、苦しむ人びとの側に立った。蓮如は困窮の中から這い上がり、庶民に届く言葉で教えを広め、本願寺を巨大な勢力へと育て上げた。

理不尽な搾取と死が身近にあり、明日をも知れぬ人びとに、救いと希望を与えた。農民、商工業者、土豪を含む門徒衆に支えられ、世の中を大きく動かした。だからその辺にいる平凡な人とは明らかに違う。

しかし、2人の銅像は、どこからどう見ても、単にその辺にいる普通のおっさんにしか見えない。故にこそか、庶民の私には、やけに近しい、我々庶民のリーダーのようにも映った。

Googleマップ:顕証寺
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