ショボい城跡に残った、しぶとい一族――開田城土塁公園

ショボい城跡に残った、しぶとい一族――開田城土塁公園

🍁 京都府の史跡

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通りを歩いていると突然現れる歴史的遺構‥‥??マンション前の細長い狭い敷地に、説明看板が立ち、ベンチがある。その後ろには少し土が盛られている。

そこは、「開田城土塁公園」

うん、なんとも立派な名称だ。

だが、その名とは裏腹に、実際は、えっ!?これだけ??って拍子抜けしてしまう。

嘗ての土塁だというほんの少しの細い土盛り、そこに植わる一本のクスノキ。以上。城跡ねぇ…。せめてクスノキが、お城が機能していた15~16世紀からの木なら感動ものだが、長岡京市の資料によれば樹齢は約200年。十分立派だが、開田城よりざっと300年若い。

で、肝心の城の規模はというと、一辺70メートルの方形の郭を、幅6.5メートル、高さ2メートルの土塁と、幅8メートル、深さ1メートルの堀で囲んでいたという。ショッボい。こんなんで守れるのか?と疑問だ。だが、開田城は、戦国大名の城ではない。国衆(在地領主)の居館、いわゆる平地城館である。と、思うと、標準スペックといったところだろう。虎口(入口)は南西に突き出して工夫がしてある。東西・南北ともに9メートル以上ある掘立柱建物や井戸や竈などが発掘されている。

さて、この地域、やけに中小路という名が幅を利かせている。2026年8月現在、長岡天満宮の宮司は、中小路宗俊氏。中小路家は長岡天満宮の宮司を代々続けている家系だ。また、長岡京市長は、中小路健吾氏である。

そして、開田城を築いたとされるのが、中小路氏だった。ちなみに近くには登録有形文化財である中小路家住宅なんてのもある。全部、中小路だな。

いや、中小路だけではない、東小路、西小路という〇小路さんが、長岡京市や向日市周辺には多数存在する。地元では「道真さんの付き人の子孫☆」と認識されているそうだ。なんとも格好良いじゃないか。

二次資料や伝承では、中小路宗則、東小路祐房、西小路祐仲、この3人が菅原道真に付き従った一族(または近臣)で、道真の死後、木像を持ち帰り天満宮を祀った、とされている。「道真」と聞いただけで立派な人達に思えてくる道真効果が面白い。

ちなみに、少なくとも、道真左遷を伝える同時代・近接時代の主要史料では、この三人の存在を確認できない。また、長岡天満宮の公式由緒でも、「道真自作の木像をお祀りした」とだけ書かれている。とすると、長い年月のなかで伝承が整えられ、「道真の近臣」という物語が次第に固定されていった可能性もある。

戦国時代になると、神社の管理権や土地の権利を背景に、いつしか開田村の中心的な存在になっていった中小路氏。日常は年貢を集め地域自治や神職の務めを果たし、いざという時の襲撃に備えるため居館を土塁と堀で囲んだ。

文献上、開田城が登場するのは文明2年(1470)。『大乗院寺社雑事記』には、山名弾正是豊と丹波勢が開田城・勝龍寺城を攻めたと記されている。
ただし、この「開田城」は鶏冠井城を聞き違えたのではないかという説もあり、細部にはなお議論がある。

少なくとも、開田城が大合戦の舞台になったとか、誰かに攻略されて落城したとか、その戦いを機に廃城になったとか、そんな派手な記録は見当たらない。

ただ、中小路氏そのものがこの一件で姿を消したわけではない。1498年の開田天満宮造立棟札にも、中小路氏の名が残されている。

応仁の乱後、西岡の国衆たちは、それまでの敵対関係を越えて結束し、「乙訓惣国」と呼ばれる連帯を形成した。1487年には荘園領主に費用負担への協力を求め、1498年には向日宮に集まり、守護に出銭して乙訓郡を「国持ち」にしようとしている。

山城国一揆のように守護勢力を追い出すほど派手ではない。だが、単なる税金逃れでもない。外部権力と全面戦争するのではなく、交渉と金と集団の圧力を使って、自分たちによる地域支配を狙っていた。

……思ったよりショボくなかった。

山城国一揆は南山城で約8年間にわたり自治を続けたが、やがて国人内部の対立や幕府政治の変化の中で解体へ向かい、最後まで抵抗した勢力も稲屋妻城で敗れた。

対して、乙訓惣国としてのまとまった活動は15世紀末まで確認され、その後も西岡衆と呼ばれる在地領主たちは、形を変えながら16世紀までこの地域で活動を続けた。

乙訓の地侍たちは、一揆というネットワークで団結を示して牽制しつつも、最後は時代の覇者にうまく適応し、中小路という家名と、長岡天満宮との結びつきは現代まで残っている。なんとも計算高くしたたかで賢い。


戦国時代には支配者が次々と入れ替わった。それでも、中小路という名と長岡天満宮との結びつきは、その後の時代にも残っていく。

天下を取るような華々しさは皆無だ。だが、外部権力と真正面から殴り合うのではなく、地域の神社や在地領主同士の結束を基盤に、自分たちの立場を守ろうとしてきた。

脳筋とは真逆の、相当したたかな生存戦略である。

開田城土塁公園の背後に立つマンションの入り口には開田城の復元模型があり、パンフレットまで置いてあるという丁寧さ。「ここに城があったんだよ!」と地元の人たちが残そうとしている姿勢がなんだか尊い。しかもあの比較的新しいクスノキは、長岡京市が1999年に保存樹木に指定した。この細く短い土塁跡は安泰である。

天下を取ったわけでもない。巨大な城を築いたわけでもない。山城国一揆のような教科書級の派手さがあるわけでもない。

それでも「中小路」という名は、城跡の説明にも、長岡天満宮の宮司名にも、市長名にも、今なおこの土地で普通に現れる。

そう考えると、目の前の開田城土塁公園のショボさが、急に違って見えてくる。

派手に勝つより、しぶとく消えない。

歴史の勝者って、案外こういう人たちなのかもしれない。

Googleマップ:開田城土塁公園
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