魔法の小槌、使えよ!――宝積寺で聖武天皇と秀吉にツッコんだ日

魔法の小槌、使えよ!――宝積寺で聖武天皇と秀吉にツッコんだ日

🍁 京都府の史跡

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細い階段をのぼった先には、説明看板。上半分がだらりと垂れ下がり、英語による説明文のみがかろうじて見られる状態。

そして鎌倉時代につくられた重要文化財である金剛力士像がまもる山門がある。さすが年季の入った力士像だ。向かって左側の力士像が特に顕著だが、腹筋の隆起を表現しているのだろうが、胸の下あたりが大きな瘤の連なりのようにボコボコしていて、ちょっと気味が悪い。色は濃い肌色と灰色。元はどっちの色だったのかは不明だ。

「聖武天皇勅願所」と書かれた背の高い石碑が建っている。山門をくぐると、室町時代建造の良縁成就が叶うという「待宵の鐘」。隣には、「大聖不動明王」と提灯がぶら下がるお堂があるが、どうも不人気なようで私が見ていた間、何人かの参詣者はそのまま素通りしていた。


さて、三重塔がある。木造三重塔で高さは約20メートル。なかなか凝った造り。この重要文化財の塔の手前には、「豊臣秀吉 一夜之塔 宝積寺」と、バランスが崩れお世辞にも上手とも普通とも言えない字が、手書きで書かれてある。墨俣城の「一夜城」と同系統の秀吉スゲー!話なのだろうが、いくらなんでも一夜では絶対無理だろ!とツッコミ殺到に違いない。


まぁもしかしたら寺宝の打ち出の小槌を振って出したものなのかもしれないが。知らんけど。

石灯籠には、打ち出の小槌が彫られていてとても可愛い。手水舎は、よくある龍ではなく、大きな亀さんである。手水舎の屋根の端から見える瓦の裏には、寄進した人の名前なのか、それぞれ白字で書かれてあった。


閻魔堂があった。名称からして恐ろしい。扉はきっちりしまっていた。鎌倉時代作の重要文化財の閻魔王と眷属が祀られているらしい。天王山の西麓の西観音寺が明治の廃仏毀釈で廃寺となった時に、宝積寺に引越ししてきたものだ。

本堂は、1232年に焼け、1605年に豊臣家により改築された。1233年作の十一面観音が本尊。「拝観時間15時迄」と貼り紙があった。時計を見ると15時10分だった。格子状の木戸の奥に本尊が祀られているようだ。時間過ぎてるしなぁとちょっと悩みながら少し歩いた。

本尊と小槌宮の間の奥には、細い九重石塔があった。鎌倉時代の建立で聖武天皇の供養塔らしい。

そして小槌宮。「まず食足りて…喜願達成 打出小槌 大黒天 金運招福・商売繁盛・家内安全・諸願成就」と看板があった。もう何でもかんでも思い通りになる♪ってことだ☆


小槌宮の前には色とりどりの楕円形の袋が絵馬なのか?大量にぶら下がっていた。そうか、大黒天が持っているあのどでかい袋を模したものなのか。小槌宮の向かって右手の狛犬さんは玉をふみつけ、左の狛犬さんはミニ狛犬を踏みつけていた。

小槌宮は、聖武天皇が龍神から授けられたという打ち出の小槌を祀っている。

寺伝では、723年、龍神が唐土より「打出」と「小槌」を日本に伝えたという。翌724年、皇子だった聖武天皇は夢に現れた龍神からそれらを授かり、祈願ののち即位した。その後、聖武の勅願によって行基が寺を建立し、打出と小槌を奉納したと伝わる。

聖武天皇を即位させた奇跡の神アイテムがあるお寺なのである。

さて、聖武天皇の治世は、災難の連打である。長屋王の変、天然痘の大流行、藤原広嗣の乱、地震や火災。天然痘では当時の人口の25〜35%が死亡したとの推計すらある。

現代人の感覚で言えば、国のトップなら、都に留まって事態の収拾を図ってくれ、と思う。

だが、聖武は、740年、 平城京を離れ、その後約5年間にわたって恭仁宮、難波宮、紫香楽宮などを転々とした。なぜこれほど都を動かしたのかについては現在も諸説ある。政治的・交通上の理由を論じる研究もあり、「祟りが怖くて逃げ回った」の一言で片づけられる話ではない。 移動するたびに新しい宮殿を作るから、現場の庶民や役人はたまったものではない。「えっ、また都つくるんですか!?」である。

その一方で聖武は仏教への傾倒を深め、国分寺・国分尼寺を全国に置き、大仏造立へと進んでいく。その規模たるや、現代人の目には「そこまで仏様に全振りする!?」と思えるほどである。

さて、ここで疑問が生じないだろうか。龍神からチートアイテムを授かったヒーローだったはずの聖武、なぜ打ち出の小槌を使わなかった??「長屋王の怨霊消滅しろ!」「疫病消えろ」「反乱鎮まれ」「大仏用の銅と金出せ」これで一発解決できるのに、便利アイテムの運用があまりにも下手過ぎる。

あんな酷い世情の中、膨大な人員と資材を投じて大仏造立を進めた聖武は、749年、大仏の前で自らを「三宝の奴」と称した。今風に雑に言えば、仏教への奴隷宣言みたいなものだ。「まず平常心出して」って振っておけば、周囲も民もかなり楽だったと思う。魔法の小槌、使えよ!

時は15時19分、お守りなどを売っている社務所に、内部拝観は可能か聞いてみた。すると、「15時迄です!」とピシャリと冷たく言われた。小さな打出の小槌を買って帰ろうかと思っていたが買う気が一気に消え失せた。

さて、宝積寺には、砂利の真ん中に「秀吉の出世石」というのがある。下手な字の看板(失礼!)+柵で大切そうに囲まれた中にあるのは、それはそれはショッボい石である。寺によると、山崎の戦いのとき秀吉はこの石に腰かけて采配を振った、という設定になっている。

皮肉なことに、その頼りない石の背後には、立派な木造の御堂や縁側そして階段がドーン!と建っている。確かに山崎の戦いで秀吉は宝積寺を本陣とし、天下を分ける大決戦の司令部として使った。

もちろん、現在目の前にある建物や境内の配置が1582年当時と同じだったとは限らない。だから「こんな場所に秀吉が座るわけない」とまでは言えない。それでも現地でこの石を見ると、どうしても思ってしまう。本当にここ!?

天下分け目の決戦で秀吉が腰かけ采配を振った石、という由来の強さに対し、現物があまりにも慎ましいのである。

聖武天皇の小槌といい、秀吉の石といい、この寺は由来が強すぎて現物が追いついてない感じがある。

境内には可愛いお地蔵様ファミリーが木の下に置いてあった。これはお寺っぽい。その隣には、卵の殻が割れたところにヒヨコが立ちその前に金の卵が置いてある。小槌寺として「福が出る」を直球でやっている。

その隣には、ドラえもんの石像。ドラえもんの四次元ポケットは打出の小槌の上位互換である。なのに、大量の緑の苔の間にドラえもんは置かれてあり粗雑感があり笑えた。

総評として、伝承はどうも景気がいい、ただし時間には厳しい、置物は突然ゆるい。
この寺の方針が一貫して「時間以外は細かいことは気にしない」であることがわかった。
縁起の話には夢を見させてもらったが、受付だけは現実だった(笑)

Googleマップ:宝積寺

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