名門すぎて排除された教養人と有子山城

名門すぎて排除された教養人と有子山城

🏞️兵庫県の史跡

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辰鼓楼の道路を挟んだ向かいに出石城跡地がある。出石城の本丸跡地を更に上っていくと、そこはもう険しい山につきあたる。『有子山登山口』と表された看板があり、えっここ行けるの??って不安になるような落ち葉で埋め尽くされた細い道が続いている。観光客は相変わらず多いのに本丸より上に来る人は見かけない。さらに有子山に登る人も誰もいない。『熊の出没にご注意ください』との不穏な表記が目につく。

本当はね、有子山城跡まで登ってみようと思っていたのだけれど計画段階でChatGPTにとめられた。但馬地方はツキノワグマの生息地なのである。

登頂口から主郭まで約1時間程度だそうだが、主郭からの眺めは出石城下町を一望でき、条件があえば雲海も見ることが出来るという。

名門中の名門・山名家

さて、有子山城は、山名祐豊が築いた。山名氏は清和源氏を祖とする名門で、室町幕府では四職家の一つに数えられた。最盛期には11か国の守護職を兼ね、「六分の一殿」と称されるほどの勢力を誇った。

山名祐豊は、最盛期には8か国の守護職を務めていた山名宗全(持豊)、そう、あの応仁の乱の西軍総大将の曾孫であり、 山名氏の惣領家(宗家)の本拠地である但馬国守護職を継承した。出石市街地の北側にある標高約140,2mの此隅山の山頂を中心に築かれた山城と、麓には平時につかう守護所(役所と館)があり、但馬地方最大級の城郭だった。

屈辱:此隅山城の落城

しかし、1569年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉らの攻撃によって此隅山城落城。祐豊は商人の町・堺へ出奔。しかし信長の御用商人・今井宗久の斡旋によって祐豊は信長により許され但馬に帰国。名門中の名門の山名氏にとってかなりの屈辱、心中察するに余りある…

祐豊は1574年に有子山城を築いた。改名の理由が、此隅(このすみ)という音が「子盗み」を連想させ縁起悪い!と嫌われたため「有子(ありこ)」と名付けた、という説がある。ほんまいかなぁ?(笑)

商人のとりなしで再び返り咲くからの滅亡

ところが、1580年、信長の命により、羽柴秀長の但馬侵攻により有子山城落城。この時嫡子である山名氏政は落城時に逃亡、祐豊の三男である山名堯熙は落城前に因幡に敗走。祐豊は降伏後、自刃したとか病死したとかとにかく命を落とした。血は残ったけれど山名氏滅亡。

その後、羽柴秀長、前野長康、小出吉政などが城主となり、有子山城の大規模改修を行った。特に羽柴秀長時代に整備されたという大規模で近世的な石垣が見どころなのだとか。但馬地方最大級の大堀切や堅堀、6段の階段状に連なる曲輪群、築地塀跡や庭園跡なども現存している。

1604年、小出吉政氏が山麓の居館を改修し出石城をつくったことから有子山城は廃城となった。

名門中の名家が邪魔になり新興勢力に潰されていく、そんな盛者必衰の理を、「有子山登山口」の看板を見つめながら体感した。山名祐豊は積極的に反抗したわけではないが、信長政権にとっては旧勢力として警戒対象だった 。あまりにも名家すぎて、そして但馬国に馴染み過ぎていた故の悲劇である。

美しい城下町

山麓へ降りてお土産屋の前を通ると、「クマに食べられる前に御持ち帰りください」と書かれ、無料でもらえる柿がゴロゴロおいてあった。今でも熊がでるのに、此隅山城とか有子山城とか現役当時も熊とか普通に城内歩いてたんじゃないのか??昔の人すごすぎじゃないか?

さらに、”わんちゃんも乗れる”EVカーレンタルがあった。バイクみたいな形だけれど1台で複数人乗れるんだね。でも出石観光って本当にギュッと狭いエリアに見どころが詰まっているからレンタルする人あまりいないかもな~。

そして永楽館。明治34年に開館し、歌舞伎や寄席や新派劇などが上演された但馬の大衆文化の中心だった場所。明治期の芝居小屋として近畿地方に現存する唯一のものであり、近畿最古の芝居小屋。

麓まで降りてくると多くの観光客でいっぱいの賑やかなざわめきで、当時、山名氏が感じたであろう屈辱や悲哀との対象がえぐいほどだなって感じた。


有子山城があるあたり一帯はツキノワグマ生息地です。

Googleマップ:有子山城
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有子山城の写真一覧

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