「小京都」なんて呼ぶな。出石は出石だ。

「小京都」なんて呼ぶな。出石は出石だ。

🏞️兵庫県の史跡

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有子山城から出石城へ ― 山城を下りた城下町の始まり

「但馬の小京都」などと呼ばれることもある出石だが、城と城下町の成り立ちは、京都とはまったく別の時間を生きてきた。

「小京都」「小江戸」そんな言葉にプラスして地方名を入れるのが一種の流行のようだが、そのネーミングは私から見ると実に腹立たしい。笑 大都会は素晴らしく、対して、田舎は田舎者!と揶揄されるようにダサい。

こうした固定観念のテンプレから生まれたのが「小なんちゃら+地名」である。地元の人たちは「小京都♪」「小江戸★」とか言われてキャッキャ♪してないで、そこブチ切れるとこだと思うな。堂々と自分とこの地名を誇りをもって名乗れ!!魂を譲り渡すな!!


さて、1580年に有子山城が落城すると、秀吉の配下が入城。1595年に有子山城主となった小出吉英は、有子山のふもとの居宅を拡張整備し1604年に出石城を築城し、山頂の有子山城を廃した。

歩きにくさMAXの登上橋と、消えた外堀の記憶

当時の橋をちょっと御洒落風にして模した登上橋はなかなか味わい深い。歩きにくさMAXの橋に刻まれたギザギザは、ゆるやかな可愛い半円型カーブの橋の滑り止めの役割を果たしている。登上橋の下を流れる川は円山川の支流である谷山川と呼ばれる川。

現在は登上橋周辺は河川公園となっているが、これら登上橋や二の丸門などは、昭和の改修工事で再建・整備されたものだ。当時は河川公園の向かいの道路を挟んだところにある辰鼓楼のあたりまでが三の丸曲輪で、その周辺をもっと幅の広い外堀がお城を囲んでいた。辰鼓楼の前にちょびっとだけ残された水路などがかつての三の丸堀の名残りである。今では可愛らしいお堀の川も、嘗ては背後の山から流れてくる自然の川を城の防御に利用した堂々たる天然堀だったのだ。

石垣は語る ― ノミ跡に残る築城の現場


橋を渡ると出石城登城門である。ここでは石垣に圧倒される。自然石をほぼほぼ加工せず積み上げるこの手法は排水性もよく非常に頑丈。一見登り易そうに見えるが上から攻撃されると逃げ場がないという優れたつくり。明治時代にお城の建物は壊されたが石垣や塀はそのまま残された。よって石垣の石に残るノミ跡などから築城時の様子が垣間見える。

お城のつくりはこんな感じ。最上段に稲荷曲輪、一段下がって本丸、山里曲輪、さらに一段下がって二の丸、西ノ丸、最下段に三の丸を壇上に配したつくり。本丸は藩主の住まいを中心にした建物で、渡り廊下で繋がれた広大な二の丸には、書院、櫓、多門、鉄砲蔵などがあった。

松平忠徳の時代になると、三の丸を増築し、本丸の機能を三の丸に移した。その後、1706年に仙石氏が城主となり明治維新まで続く。

なぜここに?二の丸の「落石注意」看板


謎なのが二の丸にあるこの立て看板。「落石注意」と書かれてある。二の丸の上の段には本丸があるのでそこへ続く石垣の下に「落石注意」の看板が置いてあるのならまだ理解できる。しかしなにもない二の丸の広場の片隅にこの看板が出ているのは一体なんだろう???考えたら負け!のやつかもしれない。

赤い鳥居の先にあるもの ― 有子山稲荷と出石初午大祭


そしてお手洗い。城内にあうような建築様式・概観で建てられている。さて本丸へ行こうとすると、ズラッと並んだ真っ赤な鳥居が山頂へ続いていて圧巻。鳥居に刻まれた年代を見ると廃城後の明治時代に町民らが寄進し整備したもの。

赤い鳥居の先にあるもの ― 有子山稲荷と出石初午大祭


出石城の最上段には有子山城への登場口と共に、苔むした狛狐が出迎える有子山稲荷神社がある。小さな神社だけれど綺麗に手入れされている。当時、出石藩は一年に一度、初午の日(2月最初の牛の日)だけお城の大手門を解放し、身分問わず山頂の有子稲荷神社への参詣を許していたこれが現在まで400年以上続く「出石初牛大祭」の始まりである。普段は入れない城内に入れるとあってはみんなとりあえず行くわな。



一段下がって本丸跡には、感応殿と称する社が有る。出石藩・仙石氏の祖・権兵衛秀久を祀るために旧家臣らが明治時代に建てたものだ。地元の人たちはこの感応殿を「権兵衛さん♪」と呼び親しんでいるそうだ。

※ここから少し寄り道をする。
出石城の話からは外れるが、城主・仙石氏を語るなら避けて通れない話だ。

仙石秀久といえば石川五右衛門を捕まえたヒーローとなっているが、捕まえた相手が一族郎党、油で釜茹でにされた、ってやり過ぎ感が否めない。自分は盗賊団の頭を捕まえただけ、釜茹での刑決定は秀吉ってことで仕事をこなした感しかなかったのかもしれない。もっとも如何に多くの敵首を持ち帰るかで評価がなされた時代の武将。人殺しが仕事だった時代にその数をこなし這い上がった人だから罪悪感なんてものもわかなかったのかもしれない。

そもそも三条河原で処刑とかああいうのって、娯楽の少ない時代の庶民にとっては、時々催される無料で観れる一大イベントだったのだろう。世間を騒がせた人物やその家族、政争で負けた嘗ての大物、そういった人々が残虐な方法で目の前で殺されていくのを、自分たちは絶対安全な中で観覧する。「うわ~すごかったね~♪」で終わる人も多々いただろうが、処刑シーンを間近で観覧し様々な感情が複雑に交差するのを認知し分析し人間理解を深めた人もいただろう。

当時の一大娯楽イベントだった公開処刑、「死刑反対!」とか騒ぐ現代とのギャップが著しい。もっとも今はイベントいろいろあるからねぇ…。

学問・文化(弘道館・茶の湯)


さて、出石藩3代藩主・仙石政辰は学問の奨励に力を入れ、1775年、藩士の子弟教育のため出石城の東門外に学問所という仮校舎を建てた 。また、積極的に各地の学者、芸術家、医師などを招き城下町の知識レベルアップを行った。出石では古田織部に影響を受けた茶の湯文化が根付き、茶道や庭園づくりにその美意識が反映されている。1782年には4代藩主・仙石久行が校舎拡張をし弘道館とし、国学や儒学などを学ばせた。出石弘道館で学んだ者の中から多くのすぐれた学者や文化人が排出され、明治維新前後の日本を動かす人材を数多く輩出した。

西日本最大のそば処:出石そば


感応殿の隣には、「出石そば発祥の由来」という石碑がある。四代・仙石政明はなんでも大変な蕎麦好きだったそうだ。1706年の御国替えで上田城主だった政明が出石に入封のさい、信州一の蕎麦打ち名人を伴い入国し、出石焼の小皿に盛る皿蕎麦スタイルが確立された。関西一のそば処であり今でも約40軒の蕎麦屋が軒を並べる。


昭和時代に復元された東隅櫓と西隅櫓と狭間は往年の年季が感じられずちょっと新しい感が出てしまっているけれど当時の雰囲気をつかむのには役立っている。とても小さなお城跡なので1時間もあれば十分に堪能できる。

最後にのこるもの

結局、誰が統治しようが民衆にとってはあまりにも酷い扱いを受けない限りトップは誰でもいい。数百年この地を統治していた山名氏だけが排除され彼を取り囲んでいた国人たちもそして民衆も新しい時代に順応しなにごともなかったかのように時を重ねる。

本丸跡に建つ感応殿と、「権兵衛さん♪」と親しまれる仙石秀久の名を思うと、歴史の勝者や敗者という区別がどれほど曖昧なものかを考えさせられる。


城も、権力も、制度も消えていく。残るのは、人がそこに暮らし、慣れ親しんだ記憶だけだ。
出石は「小京都」などではない。出石として、ちゃんとここに残っている。


出石城跡は、兵庫県豊岡市出石町に位置する。
城下町の中心部から徒歩数分という近さだが、城の構造や周囲の地形を意識して歩くと、単なる「町中の史跡」ではないことが分かってくる。

Googleマップ:出石城跡
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出石城の写真一覧

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