🏞️兵庫県の史跡
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出石城下町の中心部に立つ辰鼓楼は、現在では出石のシンボルとして親しまれているが、その成立と位置をたどると、城と城下町の構造を理解するうえで重要な存在であることがわかる。
1.出石城三の丸と辰鼓楼の位置
辰鼓楼が建つ場所は、かつて出石城三の丸の北辺中央にあたり、大手門が構えられていた地点である。明治の廃城令により門などの建造物は取り壊されたが、その際、大手門の櫓台であった石垣が辰鼓楼の基礎として再利用された。辰鼓楼前に広がる池は、往時の堀の名残であり、この一帯が城郭の要所であったことを今に伝えている。

2.鼓楼としての辰鼓楼と時計台への変遷
辰鼓楼は、もともと太鼓を打ち鳴らして城下に時刻を知らせる「鼓楼」として建てられた。江戸時代、時を告げる太鼓の音は城下町全体の生活の基準となり、人々の営みを律する役割を果たしていた。明治14年(1881)、地元の医師によって機械式の大時計が寄贈され、辰鼓楼は現在の時計台としての姿へと変化する。札幌時計台と並び、日本に現存する最古級の時計台として知られている。

3.戦国期の有子山城と出石城の成立
出石の城の歴史は、戦国時代にさかのぼる。16世紀後半、但馬国守護職であった山名祐豊が、有子山の山頂に有子山城を築いたことが、この地の城郭史の始まりとされる。1569年あるいは1574年など築城年には諸説があるが、有子山城は典型的な山城であり、周辺勢力との抗争に備えた防御拠点であった。

4.近世城郭と城下町の形成
しかし、1580年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が但馬国へ侵攻し、諸城を攻略する中で、有子山城も落城する。山名氏の没落後、関ヶ原の戦いを経て城主となった小出吉英は、戦国期の山城であった有子山城を廃し、麓にあった居館を拡張する形で平山城としての出石城を築いた。堀で囲まれた三の丸の整備とともに、城下町の町割りもこの時期に形成されていく。
その後、松平氏の治世を経て、宝永3年(1706)に仙石政明が入城し、以後、廃藩置県に至るまで約160年間、仙石氏が出石藩を治めた。現在見られる城下町の骨格は、こうした近世城郭と城下町の整備によって形作られたものである。

5.明治の大火と城下町景観の継承
明治9年(1876)、出石城下町は大火に見舞われ、町の8割以上が焼失したとされる。しかし復興にあたっては、江戸時代以来の町割りが踏襲され、多くの町家は切妻平入の伝統的な様式で再建された。一部の裕福な家では近代的な和風建築が採用されたものの、城下町の景観は大きく変えられることなく今日まで受け継がれている。現在、出石城下町が重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのは、こうした歴史的経緯によるものである。

6.城下町に時を告げる建築 ― 辰鼓楼の意味
辰鼓楼は、城を守るための軍事施設ではなく、城下町に時を告げるための建築であった。山城が主役であった戦国の時代から、城下町を中心とする平和な統治の時代へと移り変わったことを象徴する存在ともいえる。攻防の拠点ではなく、人々の生活を支えるために設けられたこの建物は、出石が歩んだ歴史の転換点を静かに物語っている。
辰鼓楼は、兵庫県豊岡市出石町に位置する出石城跡の一角、かつて三の丸北辺中央にあたる場所に建つ。周辺には出石城跡や城下町の町並みが残されており、徒歩で巡ることができる。

出石辰鼓楼の写真一覧









































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