隣にいた人たちが有名すぎた――神足神社と忘れられた国衆・神足氏

隣にいた人たちが有名すぎた――神足神社と忘れられた国衆・神足氏

🍁 京都府の史跡

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長岡京駅。平成7年(1995年)に駅名が変更されるまでは、「神足駅」という名称だった。

その駅周辺一帯には「神足遺跡」が広がっている。旧石器時代から近世まで幾重にも人の痕跡が重なる大規模な複合遺跡で、とくに弥生時代には乙訓地域を代表する拠点集落が形成されていた。

面白く思ったのが竪穴式住居のサイズが、直径4メートル前後から直径12メートルを超えるもので見つかった事。竪穴式住居にも貧富の差とか豪邸とかあったのかな?(笑)

……と思ったが、そう単純でもないらしい。大型の竪穴建物には、集会所や共同作業場のような用途も考えられている。広い=金持ちの家、とは限らないようだ。

長岡京駅から徒歩数分の地に、神足神社というのがある。創建年代こそ不明だが、854年には既に国の官社に挙げられている。つまり、それ以前から存在する古社、ということでなんとも味わいがある。

伝承としては、田村(旧名・神足村)の池に神が降り立った、という夢を桓武天皇が見たのが発端。その神は、宮中を南から襲う悪霊を防いでいた。そこで、社を建て太刀と絹を納めた、とされている。それで地名が「神足」になったそうだ。池に神様の足がドンッと着地して悪霊を撃退したってことなので、相当デカい神だ。ガンダムサイズかもしれない。そして地名も神足村となった。

今の私なら「夢を見ただけで神社つくったんかい」と鼻で笑いそうになるが、当時は、夢を、神や仏などの霊的な存在が送ってきたお告げ、と信じられていた。また、疫病や天災も神の怒りや悪霊の祟りとされていた時代だ。夢でお告げがあった場所に神社を建て神を祀り祈りを捧げる。それは、当時の人にとっては命懸けの災害対策、感染症対策だった。「この土地は神に守られている」という安心感は、当時の人には相当大きかったのだろう。

さて、その神足神社、なかなか堂々とした目立つ立派な看板が道路沿いに建てられている。勝龍寺城の土塁跡を右手に見ながら少し進むと神足神社の境内である。こじんまりしてて秒で見終わる小さなサイズだ。

霊水として信仰を集めた古い井戸跡も残る。本当に霊験があったのかは知らない。しかし、それで体調が良くなったと感じたのなら、信仰というのはなかなか侮れない。

狛犬さんが妙に可愛い。綺麗な和柄の前掛けを市松模様の晒でぐるっと首にかけてもらっていて、今でもとても大切にされているのが伝わってくる。境内には誰もいないが手入れが綺麗にされていて爽やかな感じがする神社だ。

神職さんなどは在住していない。管理は長岡天満宮がしている。御朱印なども長岡天満宮で授与されるそうだ。「神足」という名称つながりでだろう、足腰の健康や病気平癒に強い御利益があるとされている。アスリートも密かに参拝に訪れるという。

神社の裏手は、「神足城跡(神足屋敷)」という歴史スポットとしてGoogleマップに認識されている。実際は、単なる普通の公園「神足公園」なのだが、現代において珍しく多くの子どもたちで賑わっている。

神足城跡(神足屋敷)、そう…神足神社の境内やその周辺は、嘗て神足氏が居城とした神足城の跡地と目されている。神足氏は14世紀(南北朝時代)からこの土地の荘園(小塩庄)の管理に関わり、勢力を伸ばした。この地域を治めていた地元有力武士(国人・土豪)だ。物集女氏や鶏冠井氏とともに西岡衆の一人だ。

例えばこんな文書が残っている。
1337年には神足信朝が石清水八幡宮放生会の警固役を務めた記録があり、「山城国御家人」と記されている。翌1338年には神足信友が足利直義の石清水八幡宮参詣や今熊野社参詣に随従している。

1498年には、乙訓惣国が細川政元側から課されようとした「五分一済」を避けるため礼銭を用意することになり、神足友春・物集女光重・野田泰忠らが久世上下庄に対し、領主の東寺から礼銭を出してもらうよう催促している。神足友春は「年寄衆」と呼ばれる乙訓惣国のリーダー格だった。

ところが、地域政治をしたたかに渡り歩いてきた神足友春にも、ついに大事故が起きる。

1504年、細川政元の家臣・薬師寺元一が反乱を起こすと、西岡衆の一部もこれに呼応した。友春の子・春治らも巻き込まれ、神足氏は反乱側とみなされてしまう。

友春本人は「自分は関与していない」と必死に弁明したが、時すでに遅し。

しかもこの時、友春本人が窮状を訴えた書状まで現存している。何百年後の人間に「私はやってません」という必死の弁明まで読まれるのだから、古文書とは恐ろしい。

友春はその後、史料で「故備前守」と記されるようになる。

友春が消えても、神足氏そのものが滅びたわけではなかった。
ただし代償は大きい。乱後、神足氏が下司として支配していた小塩荘の「神足抱え地」は細川政元に没収されかけ、九条家が「そこはうちの荘園だ」と割って入った。結果、土地そのものが細川氏領になったわけではないが、神足氏は少なくとも、それまで「神足抱え地」で握っていた支配権をいったん大きく失った。

つまり、家は生き残った。でも友春の政治生命と、神足氏の既得権はかなり吹き飛んだ。

ところが、そのわずか数年後には神足氏が再び史料に登場する。しぶとい。

戦国時代末期に、織田信長が上洛してくると、神足氏は信長の臣下である細川藤孝(細川忠興の父)に従った。このとき細川藤孝は、すぐ近くにある「勝竜寺城(勝龍寺城)」を大規模に改修した。その際、神足城の土塁や空堀を取り込む形で、勝龍寺城の北側外郭線として再編したと考えられている。
神足神社の入口付近に残っている見事な土塁や空堀の跡は、このときに整備されたものだ。

つまり、神足神社は単なる神社ではなく、神足氏の居城跡であり、勝竜寺城の防衛の要でもあった、ようだ。

神足氏にしてみれば、先祖代々の館が巨大化する勝龍寺城の外郭へ飲み込まれたことになる。

「俺たちの館が最新鋭の要塞になった!」と喜んだのか、それとも「先祖代々の城を細川に取り込まれた……」と屈辱に感じたのか。本人たちの日記でも残っていれば聞いてみたいところだ。

ただ結果として、神足城の土塁や堀は、勝龍寺城の北側防衛線の一部として再編された。


将軍・足利義昭が勝龍寺城へ入った記録もあり、織田信長自身もこの城の大改修を命じている。


神足掃部自身も、1573年の足利義昭討伐の際には勝龍寺城の警固にあたり、その働きを細川忠興から賞されたという。
自分の城が吸収されて存在感は薄くなったものの、神足氏本人まで追い出されたわけではなく、勝龍寺城を守る側としてちゃんと働いていた。

1580年、細川藤孝が丹後へ移封されると、西岡衆の一部もこれに同行した。
細川家に残る系譜類などをもとにした地域史研究によると、神足氏では、当主の神足掃部は高齢と「在所相続」を理由に神足へ残り、代わって3人の息子が細川忠興に召し出されたという。その後、掃部が亡くなると次男は在所相続のため神足へ戻ったとされる。

一族全員で新天地へ行くのでも、全員で農民になるのでもない。本家の土地も残すし、息子たちは新しい権力者にも送り込む。なかなか抜け目がない。

神足氏は、京都近郊の西岡を代表する国衆の一角だった。幕府の御家人として警固を務め、荘園を管理し、乙訓惣国では年寄衆として地域政治を動かし、細川氏とも直接やり取りする。

地元武士として見れば、決して小物ではない。むしろ相当な有力者である。

ところが運が悪い。

すぐ隣の勝龍寺城には細川藤孝が入り、その息子・忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚し、織田信長まで絡んでくる。登場人物が強すぎる。

その結果、神足氏の城まで勝龍寺城の外郭に取り込まれ、現代では残った立派な土塁と空堀まで「勝龍寺城土塁・空堀跡」と呼ばれている。

神足氏、完全に主役を持っていかれている。

神足神社の由緒看板にも神足氏の名前はない。土塁脇の説明板に、「細川藤孝以前に当地を拠点とした土豪神足氏の城館に関する施設の可能性が高い」と、ひっそり一文。

しかし古文書を開けば、神足氏はちゃんといる。幕府の警固をし、荘園を取り仕切り、地域の代表として金の交渉をし、ときには政争に巻き込まれて盛大に窮地にも陥っている。

歴史に残らなかったのではない。隣にいた人たちが有名すぎたのだ。

そう思って改めて土塁を見ると、ほんの少しだけ神足氏が気の毒になってくる。

Googleマップ:神足神社

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