🌊 大阪府の史跡
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亀の瀬地すべり歴史資料室から「日本遺産龍田古道ビジターセンター」への道は、龍田古道と呼ばれる日本最古級の官道だ。細い道の両脇は、木々やたまに古い建物があるだけで人も車も通っていない。舗装されてはいるものの古代にタイムスリップしたかのような野性味のある細道に、「国」と彫られた管理区域のプレートが埋め込まれている。国有地の印だろうか。まさか国道アピールではあるまい。

生い茂る竹のトンネルを進んでいくと、道端に古い道標があり、『松谷御堂是ヨリ 六丁』と刻まれている。そして、鎌倉時代から室町時代初期の作品と思われる地蔵菩薩坐像が御堂に安置されている。地すべり地帯を歩く人の安全をずっと見守ってきたお地蔵様だ。延命地蔵として今でも信仰されていると記載があった。

そして隣には、「峠八幡神社」という峠の文字がひたすら映える名称の神社がある。神社名からして、山越えの難所を守る神様って感じだ。
鬱蒼とした竹林の間の小径を通っていくのだが、この竹林はかなり荒れ果てている。ゴロンと転がる大きな石は緑色に苔むしていて歴史を感じさせる。竹林の中には、古い井戸? みたいなものもあった。

大和川のほとりに「日本遺産龍田古道ビジターセンター」がある。出入りする人もおらず静かで綺麗な建物だ。
この場所は、江戸時代には物を運ぶ舟の拠点だった。上流の大和側を行き来する魚簗船の発着場で、魚簗浜と呼ばれていた。一方、大阪からは剣先舟が肥料を運んできた。
ただし、亀の瀬には滝がある。そのため、滝の下にある峠浜で荷揚げをした。浜には荷継問屋が置かれ、大和川舟運は大層活気があった。
峠浜からここ魚簗浜まで牛馬で荷物を運び、魚簗船に乗せ川を上っていった。だが、明治になり鉄道が開通すると衰退した。

無料なのにガイドが濃いビジターセンター
「日本遺産龍田古道ビジターセンター」の入口には、昭和50年ころまで設置されていた「大正橋詰道標」の石碑が展示されていた。明治時代初頭、奈良県が大阪府に含まれていた頃の思い出の品、じゃなくて貴重な文化財だ。

「日本遺産龍田古道ビジターセンター」は、なんと入館無料。ただし、展示物が大量に並ぶ施設ではない。館内には、龍田古道や亀の瀬地すべりを解説するパネルと、大きなスクリーンで見る映像展示が設置されている。だが、この施設の本当の価値は展示の量ではなかった。龍田古道や亀の瀬地すべりなら任せとけ!みたいな博識で話の面白いガイドさんがいる。しかも、無料だ!

そのガイドさんに、「亀の瀬資料室のガイド、ここのこと、何か言ってました?」と聞かれた。「いや、何も聞いてないです。」と正直に答えたものの、脳内には、微妙な勢力争いの構図が浮かんだ(笑)単に私の心が黒々しいだけなのかもしれない。だが、同じ地域の仲間なのだから、「徒歩20分位行くと日本遺産龍田古道ビジターセンターがあります。そこすっごくおススメです♪」くらい宣伝してもよさそうだなぁと思った。

川の水が多くて見られなかった、亀の瀬の名の由来となった亀岩の写真があった。葛城修験の28番目の修行場に「亀の尾宿」というのがあることから、室町時代には、すでに亀岩の存在が知られていたのではないかと推測できる、とガイドさんに教わった。
他にも奇岩があり、江戸時代には、蜘蛛岩、黄金岩、扇岩、蓮華岩など、さまざまな名前の奇岩が見られたという。
亀岩が動くと奈良盆地が洪水になる、という言い伝えがあるそうだ。現に、昭和6、7年の地すべりでは、川の真ん中にあった亀岩が、川沿いまで移動したという。岩が少しずれた、という次元ではない。川の中央から岸辺までである。地すべりの力、えげつない。

古代の官道、江戸の舟運、令和の川下り
この龍田古道、古代日本では、大和と河内・難波を結ぶ非常に重要な道だった。難波には、飛鳥時代から難波津と呼ばれる港が置かれ、九州と中国大陸を結んでいた。奈良時代には聖武天皇により難波宮が造営され、平城京の副都として定められた。奈良時代、平城京と難波宮(大阪の港)を結ぶ官道として天皇の行幸や遣唐使・遣新羅使などの移動に頻繁に使われた道だ。
さらにガイドさんによれば、龍田古道は聖徳太子が整備した可能性があるという。

龍田古道の中ほどには、地すべり地帯として知られる亀の瀬がある。そこから少し離れた古道のちょうど中間地点には、竹原井離宮があった。天皇や皇族・貴族たちが行幸の際に宿泊するための施設である。秋の夕暮れ時には多くの渡り鳥の姿がみられる景勝地だという。奈良時代には、緊急時の情報伝達のための馬屋もおかれた。
大和から河内へ抜ける峠はたくさんあるが、どれも標高が高い。峠八幡神社の標高は78メートルと低い。天皇を乗せた輿を担いで移動するにも、この道はとにかく楽だったのではないか。

ここでガイドさんから、大和川の付け替え工事にまつわる話を聞いた。もともと農家の人が、「洪水がひどいからなんとかしてほしい」と陳情していた。大阪奉行所は、「お金がかかるから無理」と突っぱねていた。「埋め立てて新田をつくったら石高が増えて儲かりますよ!」と言った役人がいた。大阪奉行所の人が、「確かにそれは儲かる!」ということで、幕府がするのではなく他の藩に洪水対策の工事をやらせたそうだ。人間社会、だいたいいつの時代もこんな感じである。

館内にはラフティングボートやカヤックも展示されていた。2026年8月末ごろから実験的に川下りを行い、2027年ごろから、川下りのアクティビティを本格的に始める計画だという。これはちょっと楽しそうだ。
古代には官道、江戸時代には舟運、明治以降は鉄道。そして令和には川下りが始まろうとしている。亀の瀬は、地面だけでなく交通の姿まで何度も変えてきた場所なのだ。
本当に川下りが始まったら、今度は水上から亀岩を探してみたい。江戸時代の上り舟は時速約600メートルだったというから、帰宅時間には少し余裕を見ておいた方がよさそうである。

日本遺産龍田古道ビジターセンター 写真一覧





































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