一人一畳、辞書は一組――適塾に詰め込まれた知の熱気

一人一畳、辞書は一組――適塾に詰め込まれた知の熱気

🌊 大阪府の史跡

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二十八畳の塾生部屋に、一人一畳。
六畳ほどの部屋には、一組しかない蘭和辞書を引くため、夜中まで五人、十人の塾生が群がった。
一方、緒方洪庵の家族十一人に与えられた部屋は、わずか七畳。

適塾は、建物の広さに対して、人と熱気が明らかに多すぎる。
その窮屈な町家から、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内ら、日本の近代を動かす人物が次々と出ていった。

現在の大阪大学医学部の源流でもある適塾は、幕末の異才を育てた徹底した実力主義の私塾だった。当時はまだガチガチの身分社会。しかし、塾内では身分より学力が重んじられ、試験の成績によって席順や階級が決まった。

その情熱の塊のような人たちがたむろしていた適塾は、淀屋橋駅(大阪市中央区)から徒歩数分の地にある。背の高いビルが建ち並ぶ中、昔ながらの建物、木の格子戸と蔵のような白塗りの壁と屋根がひときわ目を引く。

中に入ると、数枚の障子越しに外の光が差し込み、玄関まわりは明るく開放的だった。窓下に造り付けられた、古い木のカウンターがまたいい。靴を脱いで中に入ると、「玄関部屋」と書かれた案内板があった。なんか格好い呼び方でいいなぁと思ったが、要するに応接室のことなのかな??

受付を済ませれば、あとは自由に見学できる。

椅子に座って本を読む、緒方洪庵の小さな銅像が置かれていた。

病弱で武士の道を諦めた洪庵は、医学を志して大阪、江戸、長崎へと学びの場を移った。優秀さを認められるたびに、学費免除や翻訳の仕事、支援者からの援助を得て、次の師のもとへ進んでいく。

家が裕福だったから一流になれたのではない。実力によって学ぶ機会をつかみ続けた人だった。だから自ら塾を開いた時も、身分より学力と熱意を重んじたのだろう。

塾生が寝起きした部屋の柱には、今も刀傷が残っている。尖った才人や荒くれ者も多かった幕末にあって、洪庵は温厚な人柄で知られ、教え子たちから父親のように慕われたという。決して声を荒らげることなく、温かく包み込むような人柄だったため、塾生たちはかえって自分を律したと伝わる。

彼は貧しい患者からは診療代を取らず、薬代や生活費を援助することもあった。また、私財を投じて除痘館を設立。「種痘を受けると牛になる」といった迷信が広がる中、無償で接種を行い、その効果を示しながら天然痘予防を広めていった。

診療や種痘、コレラ治療などの社会的課題に取り組む一方で、蘭医学を研究し、多くの翻訳書や医学書を出版し、塾生の教育にも当たった。

志を持った若者が猛勉強を繰り広げていた場なのに、欄間のくりぬきがとても可愛らしい。塾生たちは勉強の合間に見上げて和んだりしていたのだろうか。

驚いたのが、「家族部屋」と案内された部屋。わずか七畳しかなかった。洪庵夫妻は七男六女に恵まれたが、そのうち四人は幼くして亡くなった。それでも夫妻と九人の子どもで、十一人家族である。教室の他の私的スペースには客座敷と応接間と書斎と納戸があるが、教室と塾生部屋に占領され家族部屋は狭すぎだ。家族の生活空間まで塾に侵食されている。

妻・八重の肖像画もあった。ふわっと包み込まれるような、温かい雰囲気の人だった。塾生たちからも母親のように慕われたという。

台所は、ほぼ土間で寒暖がきつそう。井戸が台所にあるのは便利だっただろうが、火を起こし、水をくみ、塾生を含む大人数の食事を毎日作らなければならない。考えただけで大変そうだ。

2階への階段は、伝統的な町家仕様の箱階段 で、段差が高くとても急。しかも足を載せる場所が狭く、こういう仕様に慣れていない現代人は、とても慎重に歩かないと超危ない。

2階は、塾生部屋と女中部屋とゾーフ部屋。ゾーフ部屋は、適塾で唯一の蘭和辞書「ゾーフ・ハルマ」が置かれていた場所。夜中まで灯が消えず、狭い部屋に何人もの塾生が集まり、無言で字引を引いていたという。適塾で最も静かで、最も熱い場所だった。

『解体新書』や『外科新編図』『内科撰要』『ゾーフ・ハルマ』の複製、洪庵の書状や著書、卒塾生が執筆した本などがガラスケースに展示されていた。卒塾後も、洪庵と塾生たちの親しい交流は続いていたようだ。

塾生部屋は28畳の畳部屋。適塾は住み込みの内塾生と通いの外塾生がいた。内塾生には一人一畳が割り振られ、そこが寝起きと勉強のスペースになった。成績順に好きな場所を選ぶ権利が与えられた。二階からは、狭い敷地に折り重なるように並ぶ適塾の屋根や、内庭、縁側が見える。戸や窓が開いていたら1階の様子も丸見えだ。

洪庵が適塾を開いてから、幕府の奥医師として江戸へ移るまでの二十四年間に、千人を超える塾生が学んだと推測されている。しかし、幕府の奥医師として江戸へ移ってから、わずか十か月後。洪庵は大量に血を吐き、五十四歳で亡くなった。

玄関を出ようとした時、頭上でミシミシと床板が鳴った。二階を見学している人の足音だろう。
けれど一瞬、一畳の陣地を行き来しながら、夜中まで蘭語と格闘していた塾生たちの足音のようにも聞こえた。

Googleマップ:適塾
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適塾 の写真(*適塾は個人利用以外の撮影は、事前に大阪大学の許可が必要です。そのため外観と入口のみの写真です。)

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