茶臼山からの帰り道、10分も歩けば着く「天神坂」。坂といっても短く、すっと登れるのですが、その途中には民家やマンションが立ち並び、生活感があふれています。マンションの前で、幼稚園くらいの女の子が踊っていて、それを笑って見ている両親。戦国の記憶が色濃く残るこの界隈にも、今はこんなにも穏やかな日常があるんだなぁ……と、しみじみ思いました。平和ってありがたい。
そんな日常の中に、こっそりと潜んでいるのが「安居神社」。菅原道真が大宰府へ左遷される途中、風待ちのために立ち寄って名水「安井の清水」を飲んだとされる地であり、道真公ゆかりの「癇(かん)鎮めの井」もあったとか。そしてここは、真田信繁(幸村)が最後の時を迎えた場所でもあるんです。

静かで小さな境内。そこに立つと、当時の景色がふっと目の前に広がるような気がします。神主さんが黙々と掃除をしているその姿にも、時代を越えた敬意を感じてしまいました。
ただ、思いを馳せると同時に、どうしても思ってしまうんです。「大阪方、戦いに勝ってたとしても……その後、どうするつもりだったの?」
総大将は豊臣秀頼、実権を握っていたのは戦経験ゼロの大野治長兄弟、母は気位MAXの淀殿。よく言えば家族経営、悪く言えば烏合の衆。そこに元浪人、町人、赤石全登率いるキリシタン勢、外国人宣教師まで混ざって、もう組織としてはカオスそのもの。
国を治めるって、名乗っただけでできるもんじゃない。政も戦もままならぬ状態で、自我とプライドだけで立ち上がったこの戦、結果は火を見るより明らかだったのかもしれません。
秀頼、四国か大和郡山でももらって穏やかに暮らしてたら、もうちょっと違う歴史になったかもしれないなぁ。
安居神社の名を世に知らしめたのは、何と言っても大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の最期です。
茶臼山に本陣を構えた信繁は、150名を中核とする3000名の部隊を率い、50人ずつに分けて突撃隊を組織。徳川軍の先鋒・松平忠直の1万の軍勢を撃破し、家康本陣に肉薄します。
このとき家康の本陣は大混乱。本来翻っているはずの馬印(軍旗)すら地に落ち、家康自身も切腹を覚悟したとも伝わっています。実際、小栗久次一人を家康のもとに残して本陣兵は3里(約12km)も逃げ去ったとも……。
しかし、信繁の隊もその時点でほぼ壊滅。最後にはわずか3名が彼の側に残るのみ。信繁自身は茶臼山まで引き返し、安居神社で力尽きたとされます。

● 自刃説 ● 疲弊し倒れたところを討たれた説 ● 松平忠直の家臣・西尾久作によって首を取られた説
これら諸説が残されています。
ただ、首実検に出された首は、叔父の信尹ですら「本人と見分けがつかない」と発言したとされ、さらに信繁は影武者を7人用意していたとの話も……。
一説では、信繁は生き延びて島津氏を頼り鹿児島へ落ち延び、豊臣秀頼・後藤又兵衛・長宗我部盛親らと余生を過ごしたとも言われています。他にも秋田・信州・高野山など、終焉地とされる候補地は多く、歴史ミステリーの趣もあります。

一方の家康にも、堺の南宗寺に“徳川家康の墓”とされるものが存在。そこには「家康の塔」や「東照宮徳川家康墓」が立っており、「夏の陣で討たれていた説」「影武者が以降の人生を演じた説」も一定の人気があります。
家康死去後に表舞台から姿を消し、政治は天海らが動かしていた……そんな流れから「天海=明智光秀説」まで絡んでくるのが、この戦国~江戸転換期の面白さでもありますね。
さて、ここ安居神社の向かいには、徳川方の名将・本多忠勝の次男、忠朝の墓もあります。忠朝はこの地で戦死。なぜか「酒豪だった」ことから、今では“酒封じの神”として祀られています。……酒好きすぎて神になるって、どんだけ。
茶臼山から安居神社へ、わずかな距離の中にギュッと詰まった戦国の記憶。歩くだけでドラマが蘇るこの界隈、あなたも一度歩いてみては? 歴史に迷い込み、現代の平和のありがたさをかみしめたくなるかもしれません。

真田幸村が最期を迎えたとされる安居神社は、天王寺駅から歩いて10分ほど。茶臼山と合わせてめぐるにはぴったりの距離感です。現地で風を感じながら、戦国の終焉に想いを馳せてみてください。
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