茶臼山、ちょっと登れば戦国ドラマ

茶臼山、ちょっと登れば戦国ドラマ

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天王寺駅の目の前に広がる、にぎやかな天王寺公園。動物園に美術館にカフェまであるけれど、その端っこに、ぽつんと「山」……?いやいや、目を凝らせばそこにあるのは、カメの甲羅みたいにモコッと盛り上がった「茶臼山」。名前だけ聞けば茶の湯でも立てそうだけど、その正体は、まごうことなき「戦国ホットスポット」なのです。

頂上までは、秒で到達可能なサイズ感。でも、そのてっぺんにはベンチと解説板が設置されていて、なんとも平和な空間。ここがあの真田幸村が本陣を構えた場所?ほんまかいな?と首をかしげながら登ってみれば、歴史の重みが静かに圧をかけてきます。

大坂冬の陣徳川家康本陣跡・大坂夏の陣真田幸村本陣跡

ふと思うのです。「ああ、なんで優秀な人から先に死ぬんやろか」と。真田信繁(幸村)しかり、石田三成しかり。義に生きた者ほどあっけなく散っていく。国にとっては大損失。下手すりゃ戦国日本の人材流出問題です。

ちなみに幸村の兄・真田信之(信幸)は、というと、真逆の生存スキルの持ち主。93歳まで生き抜いて松代藩13万石を継ぎましたが、どこか「黒い策士感」が漂うんですよね……。
若い頃は中間(ちゅうげん)を斬ろうとして後悔してたらしいのに、弟はその中間を斬り捨てて「脇差の切れ味悪ぃ」とか言ってたっていうエピソード。兄弟でこの差よ。

しかも、信之は「ワシは一人も殺してない」と晩年にドヤ顔で語ったらしいですが、いやいや、やらせとるがな、弟に。さらには大坂の役の時も自分は病気で引きこもって、元服したばかりの息子たち(信吉と信政)を代理出陣させてるし。ほんとに病気だったかどうか、あやしすぎるわ。

手を汚さず生き残る兄。手を汚してでも義に殉じる弟。どちらを「賢い」と見るかは人それぞれやけど、私はやっぱり幸村派です。潔いほうがカッコええやんか。

大坂冬の陣徳川家康本陣跡・大坂夏の陣真田幸村本陣跡

戦国の山「茶臼山」——家康と幸村の本陣地

大阪市天王寺区、天王寺公園の一角にある「茶臼山」は、現代ではベンチと木々に囲まれた静かな小高い丘。しかし、ここはかつて天下分け目の大舞台の一つでした。

■大坂冬の陣(1614年)
徳川家康がこの茶臼山に本陣を置き、大坂城をにらみつける布陣を敷いていました。茶臼山は標高わずか26メートルあまり。登れば数分の小山ですが、当時はこの高さでも軍勢の指揮や視界確保には有効でした。

■大坂夏の陣(1615年)
一転して翌年の戦いでは、真田信繁(幸村)がこの地に本陣を構え、徳川勢に最後の猛攻をしかけました。旗が風にはためき、眼下には黒々とひしめく徳川軍――そんな光景が広がっていたことでしょう。

信繁は「日本一の兵」とも称される戦国随一の名将。家康も彼を味方に引き込もうと、十万石の加増や信濃一国の提供まで提示したとされますが、信繁はそれを拒否。信義を貫く姿に、多くの現代人も心を打たれます。

ちなみに兄・信之(信幸)は、関ヶ原では東軍につき、家康の信頼を得て松代藩主となりました。弟の命を助けるため奔走し、後には高野山に配流された父・昌幸と信繁へ仕送りを続けたとも伝わります。

真田家のように、一家で東西に分かれて運命を分けた家も他にありました。仙石家(秀久の嫡男秀範=西軍VS父久秀と弟忠政=東軍)や細川家(忠興の次男興秋=西軍VS父忠興ら=東軍)などが同様の分裂を経験していますが、信繁の最期の奮闘ゆえに、真田家の名は今なお語り継がれているのです。


茶臼山の頂上で風を感じながら、ぜひ思い出してみてください。かつてこの場所で、「日本一の兵」が命をかけて突撃していったことを。そして今、その山を秒で登り下りしている自分の平和っぷりに、ちょっとだけ感謝したくなる……かも?

Googleマップ:大坂冬の陣徳川家康本陣跡・大坂夏の陣真田幸村本陣跡

茶臼山は、天王寺駅からすぐ。迷うことのないアクセスですが、念のために地図もどうぞ。かつての激戦地、いまは都会のオアシス。茶臼山の場所はこちらです。


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木津者(きづもの)と申します。
奈良と京都の境目あたりを、ふらり歩いては史跡に耳をすませる日々。真面目に、でもちょっとだけゆるく。忘れられかけた風景や物語を、やさしく拾って紹介しています。

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