🐚 三重県の史跡
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公園を歩くと、どこか穏やかな風が吹いてくる。
その静けさの裏には、藩財政を傾け、幕末の動乱を泳ぎきった藩主の“苦笑”が隠れている。
ここ津偕楽公園は、江戸末期の津藩主・藤堂高猷(たかゆき)の別荘跡である。
津偕楽公園の成り立ち
もともとは津藩主の鷹狩りの際の休憩御殿として使われていた土地。
1652~1655年頃、功労のあった家臣に分与されたが、幕末に再び藩主の手に戻る。
第11代藩主・藤堂高猷はこの地を買い上げ、1859年に別荘「御山荘(おさんそう)」を造営。
その山荘に「偕楽園(かいらくえん)」という扁額を掲げた。
これが、現在の津偕楽公園の名の由来となっている。
ちなみに「偕楽園」は高猷自身の俳号でもある。
文化を愛する一面を持つ人物だったようだ。

藩財政を傾けた文化人
文化的活動を好み、画をたしなみ、庭を愛した高猷。
だが、家臣の土地を買い上げて別荘を建てたことで、藩財政は再び傾きはじめた。
11代・12代の二代で、津藩の借金は212万両。
藩政を立て直した父・藤堂高兌(たかやす)の努力を息子が水泡に帰した格好だ。
人の遺伝や教育を考えると、軽く絶望したくもなる。
だがこの親子を見ていると、逆に「希望を持って生きるしかない」という教訓が残る。
一方で、高猷もまったくの浪費家ではない。
町人教育のために郷校「修文館」を設立し、身分を問わず学問を奨励した。
幕末の混乱期にあっても教育を支援した点は見逃せない。
動乱の幕末と津藩の「寝返り」
藤堂高猷は幕府支持の佐幕派で、公武合体(朝廷と幕府の協力)を唱えていた。
1863年の天誅組の変では鎮圧側に立ち、翌年には京都守衛の兵を送る。
しかし、1868年の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府側として戦うも、形勢は不利。
ここで津藩兵が独断で新政府軍へ寝返るという、まさかの展開。
高猷はこれを追認し、結果的に官軍として戦うことになる。
藤堂家お得意の“現実主義”である。

この寝返りが新政府軍の勝利を決定づけ、津藩は戦火を免れた。
藤堂家は明治以降も華族として存続。
息子・高潔はそのまま安濃津県の知藩事となった。
明治維新後の皮肉
幕末を駆け抜け、命からがら新時代に滑り込んだ藤堂家。
だが、皮肉なことに高猷の別荘「偕楽園」は明治政府によって国有地とされ、
そのまま公園へと姿を変えた。
新政府側に寝返って勝ったはずなのに、
別荘はあっさり“没収”。
努力も忠誠も報われない――まるで幕末そのものの縮図のようだ。
今、津偕楽公園を歩く
静かな池、赤い橋、石垣の名残。
どこか牧歌的で、平和そのものの景色の中に、
幕末のざらついた空気がまだ微かに残っている。
ここには「戦国の終わりと平和の始まり」の次章、
「平和の裏にあった苦笑」が確かに息づいていた。
地図とアクセス
津偕楽公園は津市の中心部から徒歩圏内。
春は桜の名所としても知られ、多くの市民が訪れる。
駐車場・トイレも完備で、散策にも最適。

おわりに
幕末を生きた人々の知恵と計算、そしてちょっとしたズルさ。
それらが風化した今、静かな緑の中で見ると不思議と愛おしい。
藤堂高猷がこの場所に残したのは、きっと“後世への苦笑”だったのかもしれない。
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津偕楽公園の写真一覧









2020/02






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