「奈良の公園にチンギスハン!?意外すぎる像の正体と考察」

「奈良の公園にチンギスハン!?意外すぎる像の正体と考察」

――親ガチャ大王vs庶民の星★奈良でまさかの対決

🦌 奈良県の史跡


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奈良のファミリー公園前駅に残る“なら・シルクロード博”の石像たち。なぜここに?なぜチンギスハン?徹底検証してみたら妙に納得。

ファミリー公園前駅というほのぼのとした名称の駅で降りると、そこは奈良県浄化センターエリア。まほろば健康パーク、本格的施設スイムピア奈良、テニスコート、ファミリープール、ファミリー鉄道、子ども広場など、あらゆる年代の人たちが体を動かす系で一日過ごせる娯楽エリアとなっている。

木々や刈りこまれた雑草のじゅうたんの広場をゆったり散策していると、古びた看板と、この地には似合わない異国風の石造モニュメントが目に入った。昭和63年に行われた「なら・シルクロード博」で展示された14点のモニュメントのうち4点をここに展示したものだそうだ。

見るだけで幸運って言われても…ここ奈良やし、宝くじ当たるんか?


【こんなところで御利益Get!】


まず目に入ったのは、ペルシア神話に登場する幸福と知恵の象徴ホマ鳥(双頭鷲)像 。アケメネス朝ペルシア帝国ダレイオス1世(BC522-BC486)によって紀元前518年ごろから建設が始まったペルセポリスは、壮麗な宮殿や、門や列柱の柱頭のホマ鳥(双頭鷲)の石造などで飾られた荘厳で巨大な儀式都市だった。

お次は、ペルセポリス遺跡に残るダレイオス一世の謁見図リレーフの一部のレプリカ。古代オリエント世界を初めて大規模に統一したアケメネス朝ペルシア帝国は、属州ごとに民族、宗教、言語が違う多様性に富んだ世界初の多文化共生型帝国。各国の属州代表は王に謁見するためにペルセポリスに定期的に集まった。

その上には、ゾロアスター教の最高神で知恵ある神、光と善の神と崇められているアフラ・マズダーの姿がある。

お偉いさん勢ぞろい。…全員、顔に“長時間会議の疲れ”出てません?

3つ目は、刻み込まれた絵がかなり見えずらく風化してしまっているが、秦の始皇帝が刻まれている。中国初の皇帝で戦国時代を終わらせ統一し、北方の遊牧民対策として万里の長城の基礎建築工事に着手した。


アケメネス朝ペルシア帝国が築いた広大な版図と、「王の道」などの幹線道路や宿泊網は、シルクロードの原型である。同様に、秦の始皇帝は、漢王朝時代(BC2世紀以降)に始まる本格的なシルクロード時代の前史である。


【選ばれた理由を考察】

そして、最後に登場したのがチンギスハン像。かなり威風堂々としていてそして今にも動き出しそうなほど躍動感がある。他の石像はひびが入ったり刻み込まれたデザインすら薄れかけているのに、この像にいたっては劣化が感じられない。

しかし何故、なぜなんだ!?「シルクロード!」と言って真っ先に思い浮かぶのは、アレクサンドロス大王、漢の武帝や張騫 、聖徳太子や小野妹子とか。彼らを差し置いて何故チンギスハンなのか。確かにチンギスハンもシルクロード繋がりで連想できる、しかしなぜ彼なのか、謎過ぎて脳内に疑問が渦巻いた。

聖徳太子は、特に奈良ではおなじみ過ぎる。今更、聖徳太子がここにいても「あっ、またか~御馴染みっす!」でスルーしてしまう。では、小野妹子はどうか?当時遣唐使死亡率43%という中、朝鮮経由ではなく直接唐に渡り様々な事を学び帰国した彼はやはり偉大である。しかしやはりインパクトにかける。しかも日本はシルクロードの東の終着点ではあったけれど、シルクロード建設とは関係がない。と、考えると日本人は却下、これはわかる。

張騫 はどうだろうか?張騫 は、人間に好かれ己の味方にしてしまう不思議な魅力を持っていた人物として知られる。さらに初志貫徹する意志の強さも持ち合わせていた。漢の武帝の声掛けに、誰もがしり込みする中、名乗りを上げた張騫 は、情報を持ち帰り中央オアシスルートを開いた人物である。

しかしやはり先を見据えて命令を発した漢の武帝を前にしては影が薄れてしまう。

では漢の武帝は保留にして、次、何故アレクサンドロス大王ではなかったのか、を考えてみる。

突如として現れるチンギスハン像


【なぜアレクサンドロス大王は選ばれなかったのか?】

アレクサンドロス大王と言えば、そもそも生まれが名門!父=軍事の天才フィリップス2世 、母=王家の出で血筋は抜群 。その上、家庭教師はなんとアリストテレス。将来の腹心となるべく同年輩の良家の優秀な子息を学友としてあてがわれ、英才教育、帝王教育を受けて育った。

結果、16歳で一国の統治を任され、大将として戦争を経験。18歳でカイロネイアの戦いでも左陣を任され、20歳で父王が暗殺されたことによりマケドニア王に即位した。父王が遺した優秀で経験豊富な軍隊、有能な人材をまるまる受け継ぎ、父王が着手していた小アジア進出事業も受け継いだ。

はいはい、勝ち組は勝ち組同士で歴史に名を残しててくださいな。こっちは税金払うので手一杯ですわ。

さて、ここでアレクサンドロス大王の像が、でーん!と鎮座していたらどう思うだろう?いいよね~生まれがいい人は!いいですよね~親が金持ってると。羨ましいですわ~教育に金かけてもらえて、優秀な親でしかも金持ってるって最強過ぎませんか?いいっすねー。

庶民の読者ここでうなずいてるでしょ?

日本の貧富の差はますます拡大していっている。正直、貧民が大多数である。そしてさらに多くの貧民はこう考えるだろう。自分もな~金かけてもらって上手く教育で導いてもらっていればな~しかも優秀で忠実な下僕つきで軌道に乗っている事業継承させてもらえればな~、自分だってアレクサンドロス大王みたいになれたのにな~。自分だってな~、みたいな!笑笑

ここであえてツッコミはしない!笑うこともしない!ちょっと笑が漏れていた気もするがそれはきっと気のせいである。


【彼しかいない!希望の星★チンギスハン★】

では、次、いよいよチンギスハンにいってみよう。彼の出自は謎である。だからこそ、源義経が海を渡ってチンギスハンになったーーーーー!という説もあるくらいだ。源義経=チンギスハン説は、田中英道教授の本を参考にしてもらうことにして、ここでは違う説を記しておく。

金の皇帝の顎髭をひねったという豪胆なハンカブルが曾祖父。父親はチンギスハンの幼少期に亡くなっている。氏族内ではバートル(英雄)の尊称をもち、ハンカブル続きの高貴な家系との矜持はあったものの、残されたチンギスハンの母親は幼子6人を抱える未亡人。その日の食事にも事欠く最貧困層。おまけに血だけは名門なものだからチンギスハンは命を狙われながら敵だらけの中で成長していった。そんな中、1人ずつ仲間を増やし13歳にして英雄と言われるまでになった。チンギスハンが亡くなる時には、あのアレクサンドロス大王の版図の4倍もの広さの一大帝国を築き上げたのである。

それだけではない、チンギスハンの死後も、後継者モンゴル族はさらに版図を2倍に広げた。その規模、世界の陸地の5分の1に相当する。

おまけに日本には、神風(笑)によって近づくことができなかったので日本人にとってそれほど嫌な記憶もない。むしろ、義経=チンギスハン説~☆によって、日本人が成し遂げた偉大な案件扱いに脳内変換も可能である。

奈良の公園に突然出現するラスボス感。通りすがりの親子もびっくり。


【結論:奈良にチンギスハン像が残った理由】

極貧からはい上がって帝国を築いたチンギスハン。彼の像が奈良の公園に残っているのは、庶民にとって「どん底からでも夢を見られる象徴」だからかもしれない。

アレクサンドロス大王みたいな“親ガチャ勝ち組”を置いたところで、貧民の胸には刺さらない。
でも、命を狙われながら自力で仲間を増やし、最後には世界の5分の1を支配したチンギスハンなら…「もしかしたら自分も」って妄想の余地がある。

だからこそ、奈良の片隅で妙に堂々と残っている。これは案外、的を射ているのかもしれない。

…もちろん、征服の血なまぐさい部分は都合よく脳内削除で(笑)。


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2019/08

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