孝謙ちゃん(称徳天皇)と道鏡くんの話は、いろんな意味で伝説だ。権力争いに恋愛に、おまけに国家財政まで巻き込んでるんだから、スケールがでかすぎる。
道鏡LOVEが加速しすぎた孝謙ちゃんは、仏教の守護神・四天王像まで作っちゃう。聖徳太子が物部守屋と戦うとき、四天王に祈って勝ったという前例があったから、孝謙ちゃんも「いける!」と思ったんだろう。
でもまぁ、歴史ってのはうまくいかないもので。藤原仲麻呂との戦に勝っても、世間の目は冷ややか。道鏡との蜜月も、結局は称徳天皇の死で終焉を迎える。で、道鏡は下野に追放。政治も恋も、片道切符だったわけだ。

その後の西大寺はすっかり荒れ果てて、もはやかつての栄華は跡形もなし。そこに登場するのが、スーパーヒーロー・叡尊。非人や癩病患者にまで手を差し伸べ、ガチの仏教実践を地で行った男だ。
彼の信仰は、自分のための信仰だった。文殊信仰に基づいて、貧者を救うことで福を得る。「結局みんな自分のために動いてるんだよね~」っていう冷めた目線をも包み込む優しさがあった。
「西大寺ってさ、道鏡の色ボケ寺かと思ってたけど、叡尊がいたから今も誇れる寺になったんだなぁ」そんな気持ちで境内を歩くと、何百年も前のドラマがふわっと浮かんでくるから不思議だ。
西大寺 千年の興亡
■創建と称徳天皇・道鏡 西大寺は、奈良時代の女帝・称徳天皇(孝謙天皇)と、彼女の寵愛を受けた僧・道鏡によって創建された。創建の背景には、藤原仲麻呂との政争があり、戦勝祈願として四天王像の造立が行われた。
また、藤原仲麻呂一族の怨霊を封じ込める目的で、金堂院の東方にある小塔院堂内に、10万基の木製の小塔を安置したとされる。

■伽藍とその変遷 当時の西大寺伽藍は平城京のなかでも髄一の規模を誇り、金堂の屋根には豊富な装飾が施されていた。壮大な伽藍が建ち並んでいたが、現在は周囲の民家の下に埋もれ、発掘も困難な状態となっている。
現存する建物の中では、南門がもっとも古く室町時代初期のもの。他の建物はいずれも江戸時代に再建されたものである。創建時に安置されていた仏像はほぼ現存せず、銅造四天王像の邪鬼、木心乾漆造の四仏坐像、吉祥天立像などが残るのみだ。
称徳天皇亡き後、西大寺は急速に衰退した。平安遷都以降その傾向は加速し、846年には講堂の仏像が焼失、927年には塔に火災、928年には雷で塔が焼失、962年には台風で食堂が倒壊。1048年には鐘楼の鐘が落下し、金銅四天王像も野ざらしに。1118年には諸堂が大破しても放置され、礎石だけが残るような荒れた地となった。

■叡尊の再興 鎌倉時代に入り、1235年に叡尊が入寺すると、驚異的な再興が始まる。授戒活動、非人・癩病患者の救済、寺の再建などを通じ、全国に700以上の寺を興す。文殊信仰を基盤とし、施しと修行を両立させた。
■光明真言法会と経済基盤 1264年には光明真言法会を開始し、七昼夜にわたる読経が評判を呼び、田畑の寄進が相次いだ。1268年から30年間で73町の田畑が寄進されている。
■その後と現代 1287年には鎌倉に桑ヶ谷療病所を設け、20年間に6万人以上を収容し、その8割が回復。西大寺はその後、幾度かの焼失と復興を経て、現在に至る。
西大寺は、奈良市の西部に位置し、近鉄西大寺駅からすぐの場所にあります。地図で場所を確認しながら、歴史の舞台に思いを馳せてみてください。

政治の道具にも、信仰の舞台にもなった西大寺。そこには、人間の欲と救い、どちらもが息づいています。かつての愛と野望、そして再生の物語を感じながら、静かに境内を歩いてみてください。
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