🍁 京都府の史跡
今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。長岡京は“雅な都”だった――と、復元図は言う。
でも現実は、怨霊・水害・疫病・政治の粛清が詰まった短命国家プロジェクトだった。
美しいのは図だけで、運用はだいたい地獄である。
長岡京――雅の仮面を剥ぐと、怨霊政治と衛生ホラーだった
長岡京は、たった10年ほどで捨てられた。
短命の理由を「祟りが怖かったから」と言えば、歴史は少しロマンになる。
でも現実はもっと露骨でいい。
政治は殺し合い。
土地は水没。
疫病は流行。
衛生は崩壊。
それでも人々は――解決策として、まず祈った。
排水溝を掘るより先に、陰陽師を呼ぶ。
原因を突き止めるより先に、怨霊のせいにする。
いや、違う。
怨霊を信じたというより、怨霊にしておくと都合が良かったのだ。
長岡京は、ただの遺跡じゃない。
人間の本性の保存展示である。

“本命じゃない男”が皇位に届くまで
天武天皇系の皇子へ皇統が移っていく流れの中で、白壁王は本来、皇位継承とは縁遠い立場だった。
その白壁王が、高野新笠との間に子をもうける。第一子が山部親王――のちの桓武天皇である。
新笠は山背(山城)に住む渡来系氏族とつながる出自とされ、系譜上は百済王族の血を引くとも伝えられる。
ただ、当時の朝廷社会で渡来系の血筋は、誇りになる場面ばかりではない。
むしろ、目に見えない差別と偏見がまとわりつく側だったはずだ。
歴史の面白いところは、こういう「中心にいない者」が、ある日突然中心に立つことだ。
そして中心に立った瞬間、人は“理想の顔”を作らされる。

改革は美しい。でもだいたい血の匂いがする
白壁王は周囲の支持を積み上げ、ついに即位する。光仁天皇。即位は62歳。
当時としては異例の遅咲きであり、政治の綱渡りを生き残った結果でもある。
そして皇太子・山部親王は即位し、桓武天皇となる。
桓武天皇は改革を進めた。
けれど改革というのは、清潔な言葉ではない。
改革とはたいてい、
誰かを排除する正当化であり、
誰かの首を踏み台にする理屈でもある。
事件が起きれば、それは「利用できる材料」にもなる。
政治はいつだって、正しさより先に、都合で動く。

遷都――都を動かす理由は、理想じゃなく恐怖
奈良の仏教勢力は強大だった。
国政に影響を与え、時に政治の主役になりかねない力を持っていた。
道鏡のように皇位に迫る存在まで現れたのだから、朝廷側が警戒するのは当然だ。
桓武天皇は遷都を決意する。
奈良の影響から離れ、新しい都を造り直す。
その象徴が長岡京だった。
遷都計画の中心人物として動いたのが藤原種継である。
国家プロジェクトには責任者が必要だ。
そして責任者がいるということは、失敗したときに刺される場所が決まっている、ということでもある。

種継暗殺――“反対派”という名の現実
長岡京造営が進む中、藤原種継が暗殺される。
遷都そのものへの反発、権力闘争、怨恨――いろんなものが絡み合っていたのだろう。
調査の末、早良親王は事件への関与を疑われ、幽閉される。
そして淡路へ流される途中、死去した。
ここから先は、史実として断言しづらい部分もある。
だが確実に言えるのは――
早良親王の死は、政治に“怨霊”という爆弾を残した。

「祟り」という説明装置が、政治を救う
その後、桓武天皇の周囲で不幸が続く。
母・新笠をはじめ近しい人々の死。
干ばつ、飢饉、疫病。
そして、安殿親王の病も長引く。
原因が見えない時代、人々は説明を求める。
そこで登場するのが怨霊や祟りという概念だ。
神祇官に卜わせ、「早良親王の祟り」と占断された――と伝わる。
桓武天皇は鎮魂の儀を行い、祈祷を重ねた。
さらに追い打ちのように、風雨で門が倒れ、桂川が氾濫し、長岡京南部が浸水したとも記録される。
政治の失策なのか、土地の問題なのか、偶然の災害なのか。
だが当時の人々にとって、それらは「怨霊の意志」として意味づけされていく。
怨霊は怖い。
でも一番怖いのは、怨霊を作る側の人間だ。
怨霊にしてしまえば、責任の所在がぼやける。
怨霊にしてしまえば、誰かを吊し上げる理由ができる。
怨霊にしてしまえば、説明が完成する。
祈祷は効かない。だが“効いたことにできる”。政治に便利だ。
そして桓武天皇は決断する。
長岡京を捨てる。
平安京へ遷都する。
長岡京は、わずか10年ほどで都としての役目を終えた。

史跡・長岡宮跡(大極殿公園)――草むらに残る“国家の失敗跡”
今、長岡宮跡の一部は「大極殿公園」として整備され、保存されている。
発掘された礎石が展示され、大極殿、朝堂院、南門などの配置が丁寧に説明されている。
碁盤目状の長岡京が、どんな姿をしていたのか。
看板の復元図を見ると、都の壮大さが伝わってくる。
そして公園内には、丸い石がポンポンと並んでいる。
これは内裏内郭築地回廊跡を復元したものだという。
さらに、復元された宝幢(ほうどう)の柱も立っている。
宝幢とは、元旦や儀式のときに立てられた旗柱で、華やかな絵柄が描かれ、都の空にたなびいた。
想像するだけで、雅で壮麗で豪華絢爛。
“都”とは、こういう美しさの象徴だった。
……はずなのに。

雅の都は、現実では“臭い”が勝つ
ここからはロマンを壊す話をする。
平城京は衛生状態が悪く、悪臭も酷かったとされる。
だから遷都すれば環境が改善する――そう思いたくなる。
だが長岡京も、結局は水害に悩まされる。
浸水被害が相次ぎ、土地の弱さが露呈する。
平安京がやや高い地盤に造営された背景には、この教訓があったとも言われる。
そして平安京ですら、衛生問題からは逃げられなかった。
生活排水や排泄物は、溝や川へ。
雨が降れば溢れる。
湿気と虫は増える。
病の原因がわからなければ、怨霊や疫神に理由を求める。
呪符や占いで“防御した気になる”のは、当時の合理だった。
美しい平安絵巻。
けれど実態は、死臭・悪臭・汚物と同居する世界だった。
風呂は毎日入るものではない。
洗髪は数か月に一度。
貴族は香でごまかせたが、庶民にはそんな余裕はない。
側溝の隣に暮らし、湿気と虫と臭いに耐える。
床は土間が主流で、環境は過酷だ。
平安京ですらこの状態なら、
長岡京が「もっとひどかった可能性」は、普通にある。
江戸時代になって排泄物が肥料として価値を持つまで、
糞尿や死体は“管理される資源”ではなく、“そこらにある厄介物”だった。
雅は上澄み。
底は泥と糞尿と死臭だ。

桓武天皇は改革者だった。でも全部は救えなかった
桓武天皇は確かに改革を行った。
だが都の衛生改革はできなかった。
治世の多くを遷都と蝦夷征伐に費やし、国民負担は重い。
恭順を示した阿弖流為と母礼を、結果的に処刑したことも評価が割れる。
一方で子が多すぎた。
臣籍降下によって平氏が始まり、嵯峨天皇(桓武天皇の子)の代には源氏も始まる。
そして後世、その血筋は争い続ける。
桓武天皇が全ての原因だとは言わない。
けれど「ここで歯車が決定的にズレた」感じは、確かにある。
国家は改革だけでは救えない。
土地と衛生と権力闘争――
現実のほうが、いつも強い。

長岡京は“夢の都”じゃない。人間の現実そのものだ
長岡宮跡に立つと、壮麗な都の夢が見えてくる。
復元図は美しい。
儀式の旗は華やかだ。
雅という言葉が似合いそうな空気が漂う。
でも、ここは同時に――
怨霊政治と、都市計画の失敗と、衛生ホラーの跡地でもある。
美しい歴史に酔うのもいい。
ただ、歴史はたいてい「綺麗な顔」だけを見せてくれない。
長岡京は、そのことを静かに教えてくる。

史跡・長岡宮跡(大極殿公園)は、長岡京の中心施設「大極殿」周辺とされる場所です。
復元図や解説板を見ながら歩くと、わずか10年で消えた都の輪郭が意外なほどリアルに立ち上がってきます。
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長岡京宮跡の写真一覧


























































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