室生寺は祈りの場か、それとも権力の舞台か

室生寺は祈りの場か、それとも権力の舞台か

🦌 奈良県の史跡

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折角なのでプラス400円の拝観料を払い室生寺の寶物殿にも入ってみた。

この辺り一帯は龍神の地。龍というと雨乞いが浮かぶが、781年には室生寺でも止雨の祈祷を行った、と書かれてあった。

止雨祈祷というと白馬奉納が有名だが、馬入手困難になると代用として絵馬を奉納するようになった。また、僧が生贄代わりに土に埋まって入定(即成仏)し犠牲となる伝説が各地にあったが、いつしかそれを簡略化し、てるてる坊主で代用するようになる。

人間のご都合主義がよくわかる話である。
神が望んだのではない。
人間が、自分たちの安心のために差し出してきただけだ。

室生寺の始まりには、いくつもの説がある。だが、どの説にも共通しているのは「祈り」と「権力」だ。室生寺は奈良時代以降、興福寺の支配下に置かれていた。

だが、室生寺は天台宗との関係を深めた。さらに空海の弟子・真泰が室生に住み始めると、今度は、次第に真言密教化が進んだ。そして、1658年には、寺領や支配権をめぐり興福寺と争う。結果、寺社奉行の裁量により興福寺が勝訴。お寺と言えども、人間界のドロドロがくっきり現れた出来事である。

1694年、新義真言宗の高僧・隆光が室生寺を拝領。室生寺は、真言宗室生寺派の大本山となった。ではなぜ、興福寺は室生寺を手放したのか。 ここにも人間臭い腐臭が漂っている。

桂昌院(綱吉の生母)は隆光に厚い信頼を寄せていた。将軍・綱吉は母に絶対的に従っていた。 故に室生寺は隆光のものになった。興福寺も江戸幕府には逆らえない。

桂昌院は2千両(現代の2億~6億)もの大金を寄進し、堂塔修理支援をし、女人高野としての地位を高めた。室生寺には桂昌院の五輪塔(供養塔)がある。寺紋は徳川家の葵紋+桂昌院の実家(本庄家)の九目結紋が併用されている。

他にも桂昌院は実家の本庄家を次々に大名に取り立てたりもしている。生類憐みの令も桂昌院の願い説が昔から囁かれているし、幕府財政悪化も綱吉のマザコンが一因との説もある。

気の毒なのが赤穂浪士たちである。赤穂浪士たちの吉良邸討ち入りにより、母の従一位叙任のための勅使接待がぶち壊された。故に綱吉がブチ切れ赤穂浪士たちが切腹させられた、なんて話まである。

八百屋の娘だったお玉が春日局に見込まれ家光の側室となり、息子を母に従順に育て、その息子が将軍となる。幼いころから相当に賢い娘だったのだろう。さすが、玉の輿の語源になるだけの人物である。

さて、室生寺縁起には室生寺周辺がスケッチされてあった。軋鬼ヶ城や吉祥龍穴は描かれてあったが、天の岩戸はその絵にのっていなかった。当時は、さほど重要視されていなかったのかもしれない。

ヤクザの刺青みたいな柄の衣裳をまとっている毘沙門天のベルトは、獅子舞みたいのがグッと噛んでいるデザインで、まるで変身ベルトのよう。平安時代作の地蔵菩薩像の右手人差し指と小指が縁故詰めされていて痛々しくてゾワッと寒くなった。

12神将立像は6体が金堂に安置されていて、他6体が寶物殿にある。金堂では数メートル先の暗闇にあるものを眺めることしかできなかったが、寶物殿では近くでマジマジと鑑賞できた。

宮毘羅大将のズボンの膝あたりの造りには特に感心した。5体がフリル衣裳の下にコテをつけ靴を履いている中、伐折羅大将だけは素肌露出し、足も裸足。

珊底羅大将はあんなポーズでよく倒れないなというようなポーズで、しかも顔がビートたけしに似ていた。皆、厳しい表情の中、珊底羅だけがのほほんとした表情。

この12神将立像は正面から観るよりも、両端左右の斜めから観賞すると面白い。それぞれ3体ずつと目線があう。干支の神様には決まりがない。お寺によって違う 、と僧侶さんから教えてもらった。

見ごたえは十分。満足感も高い。
それでいて、ほどよい狭さで疲れない。

400円。
人間の綺麗事と本音を、ここまで露骨に見せつけられる。
安いなんてもんじゃない。

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