古代への扉ー上津遺跡を訪ねて

古代への扉ー上津遺跡を訪ねて

🍁 京都府の史跡

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昔ながらの狭い道が張り巡らされた古い住宅街の一角に、石碑が建っている小さな広場がある。「上津遺跡」と彫られたその石はとても立派で重厚そうだ。古代の超巨大物流センターに近い役割があった地にふさわしい見栄えの石。

ここには嘗て、東西二町(約2万平方メートル)以上の大きさの当時のハイテク物流倉庫が建ち並んでいた。

家を挟んだ隣は土手があり下は草木が生い茂る自然堤防。その向こうに木津川が流れている。しかし、土手に登っても木々に遮られその先に川が流れている様は今では見えない。

奈良時代にはこのあたりは砂地だった。各地から運ばれてきた物資を大和へ運ぶための港として機能していた。都と地方を結ぶ水運の大動脈として大いに賑わっていたのだ。今ではそんな想像もできないような静かな地である。

昭和51年の宅地開発時の発掘調査で、非常に大規模な総柱倉庫群が発見された。また、官人の所持品だと考えられる品々や当時の最高級土器・彩釉陶器や祭り用品や銭や工具など様々な遺物も発掘されている。

遺跡からの推定ではこの辺りがもっとも繁栄していたのは740年頃。藤原広嗣の乱がおこった頃である。疫病の大流行や社会不安が高まっていた頃で、その頃、行基はこの辺りに来て、泉大橋をつくったり泉寺布施屋を運営したりして、民衆の不安を取り除くことに尽力していたと推測されている。

恭仁京が造営されるのもちょうどこの頃で、全国から運ばれてくる巨大材木や物資はここ上津で陸揚げされた。

巨大官営施設のほかに、ここにはもう一つの顔がある。この辺りは、木津川がちょうどカーブする地点にあるため、水害を防ぐための祈祷が頻繁に行われていた。人面墨書土器や人型などが大量に出土しており、洪水が起きないよう、疫病が入ってこないよう、祈りながら身代わり人形などを流したスピリチュアルな祈りの場でもあった。

不安な心の拠り所として祈りを捧げる人々、
惑い苦しむ人々を助けるために公益事業に奔走した行基、
そして大量の物資が水揚げされ、何百人もの人々が材木を運んでいた港。

いま目の前に広がる静かな草地と住宅街からは想像もつかないが、
この場所はかつて、人と物と祈りが渦巻く、
時代の不安を一身に引き受けた結節点だったのだろう。

石碑は、その痕跡を淡々と残している。

Googleマップ:上津遺跡
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