🍁 京都府の史跡
今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。木津川市にある城址公園は、室町時代に地元領主・木津氏が築いた城跡と説明されることが多い。しかし近年では、木津氏が本拠とした「木津城」は、この城址公園とは別の場所にあったのではないか、という見方も地元研究者の間で共有されている。

木津氏の勢力規模を考えると、現在残る城址公園は、本拠とするにはあまりに小規模にも見える。 城址公園の半分は市営墓地となっており、下っていくと木津惣墓へと続いていく。
城址公園の看板には次のように説明されている。
「この城跡は、15世紀半ばにおこった応仁の乱によって(略)地元農民や在地土豪が生活を守るため、近くで合戦が始まると周囲の高台や丘陵上に設けた砦や城館に立てこもりました。この城跡も在地土豪を中心にした人々により維持されていたと考えられます。」

平らな面である南北60m、東西50mの曲輪、敵の侵入を防ぐために土を盛り上げた土塁や堀切の遺構がのこされている。
山頂への上り下り口は複数個所のルートがあり、有事には地元民が方々から山頂へ避難し隠れ籠った様子が目に浮かぶ。
木津市街や木津川を一望できる絶景スポットでもあり、外敵や不審な集団の動きを監視するのにも適した立地である。 木津港の様子も眺められる。

木津は、水陸両方の交通の要所だった。その木津港の巨大利権を一手に握っていたのが、興福寺の衆徒であり木津荘の最高荘官だった木津氏である。
木津氏が築いた木津城は平城で、現在、市役所がある辺り一帯だったのではないかと考えられている。「殿城」「内垣外」「西垣外」「南垣外」などの地名も残っている。戦国末期には三好政康ら3000人の兵が入城したとされるが、信長の入京後には廃城となった。

南山城は、小領主が狭い範囲をそれぞれおさめていた。山城国一揆のあとも、隣の狛氏は信長や秀吉に仕え江戸時代にも存続。また、椿井氏も江戸時代にも名主や医師として権力を保持し捏造椿井文書をつくったりもしている。それに対し、木津氏は山城国一揆崩壊後も16世紀初頭まで木津執行だったが、織田信長上洛以降、歴史上の表舞台から忽然と姿を消した。

当時、木津氏は、木津港という巨大利権を所持していた。豊富な産出量を誇った生野銀山に対し、 通過するもの全てから関銭徴収ができる木津港。当時の大都市・奈良(興福寺、東大寺)への物資はすべて瀬戸内海→淀川→木津川を通り木津港で陸揚げされた。奈良への物資供給を止める経済封鎖も可能。
室町時代の主要関所は年間で数千貫文(数億円~十数億円)の例もある。木津港は、水陸両方の物流が集中する巨大拠点であり、言わば「自動集金装置」のような存在だった。
松永久秀や三好氏や信長など戦国大名にとってこの黄金の港は己のものにしておきたい場所だった。もし木津氏がこんな利権を手にしていなければ歴史の表舞台から消えることはなかった可能性が濃厚である。
応仁の乱の時、木津氏は西軍山名方から東軍細川方へ寝返ったり、両方に兵を出して様子見をしたり、山城国一揆の有力メンバーになったり、生き残るためにうまく立ち回った。その姿を思うに、木津氏はその後も武士としてではなく商人などとして生き延びた可能性が高い。プライドを守り勇ましく華々しく散るのが正の時代、松永久秀のような豪胆な生き様はスカッとするが、そんな価値観に染まらず自由に生きトンヅラをきめこんだ木津氏は、かなり先進的な思考の持ち主だったのかもしれない。

木津城址公園の写真一覧


















































































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