日本史上屈指のフィクサー   藤原百川

日本史上屈指のフィクサー   藤原百川

🍁 京都府の史跡

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住宅街に突如現れる階段。その階段を登ると、なにこれ?と脳内に疑問符が踊り始める。2つの小さな山が「北ノ庄児童遊園」の敷地内を圧迫。山の上にのぼる他に遊ぶ場所がない!その事実を隠蔽するかのように端っこにブランコと滑り台が設置して有る。

そして、思う。この2つの山は、住宅造成の際に出た残土を、処分料を浮かせるために盛ったんじゃないのか――
そんな邪推が一瞬よぎる。

2つの山を背にするように大きなピカピカの安っぽい石碑が建っている。石に刻まれた文字も現代的で有難みを感じられず石碑をますますショボく見せる効果を数倍増にしている。しかし刻まれている内容は「藤原百川公墓」と、威厳がある。このギャップ。

『日本後紀』や『延喜式』に、相楽郡に百川の墓有り、の記録があるが、ピンポイントでの場所は定かではない。明治27年に伝承や江戸時代の文献をもとに「藤原百川の墓」と認定された場所がここ。明治28年に平安遷都1100年を記念し整備された。

大きなピカピカの石碑は神武天皇即位2600年を記念して、昭和15年に政府主導で建てられた石碑の一つだ。由緒ありそうなとこに石碑でもたてとけ!ブームの産物。しかしその石碑よりも

むしろ公園の端にひっそりとある古びた石壇と小さな石碑?に心が動いた。刻まれた文字は消え失せ、説明看板もなにもなく文献にも見当たらないようだ。しかし、江戸時代、もしくはもっと昔からあった墓標の元祖ではないかと胸アツになる。こっちの方が本丸な感じ。ピカピカ石碑は気づくと鼻で笑ってしまっていたけれど、ボロイ墓標?らしきものには「腹黒百川さん最高っす!」と手を合わせていたほどだ。

この公園の表側入り口は、交通量の多い道路である。全然神社っぽくないけれど驚くことに鳥居がたっていて小さな注連縄飾りが揺れている。ピカピカの御墓と注連縄飾り、この場所が大切にされている証拠なのかもしれない。

公園内を圧迫している2つの墳丘は、藤原百川と近親者の墓ではないかと伝えられているが、確たる考古学的裏付けはない。 言い伝えレベルなので、墳丘と言われるその山を踏みつけて歩いたとしても、誰からも批判されることもない。

《藤原百川とはどんな人物だったのか》

藤原雄田麻呂(藤原宇合の第八子 )は、白壁王の子・山部王の親友。母系が百済王氏につながる出自で、当時の皇位継承の文脈からは程遠い立場にあった山部王を叱咤激励してきた。

雄田麻呂も相当の苦労人だ。藤原弘嗣の乱で関係者一族が処刑される中、雄田麻呂はまだ幼かったため流罪となり苛酷な状況を生き抜いた。

転機は、藤原仲麻呂の変である。孝謙上皇から罪を許され、知力を武器に政権中枢にまで昇りつめる。称徳天皇や道鏡にも気に入られ信頼を得た。一方、宇佐神宮へ神託授与の旅にでる和気清麻呂に働きかけ称徳天皇と道鏡の陰謀実現を防いだりもしたとか。

そして、道鏡に現を抜かす称徳天皇の体が少しずつ蝕まれ危篤。陰謀論めいた噂にすぎないが、雄田麻呂は、称徳天皇の毒見役の女官と懇ろの仲だったとかなんとかかんとか…。

母親が百済王の子孫で皇位継承の見込みがなかった白壁王を皇位に押し上げ、吉備真備の仕掛けを逆手にとり罠にはめ光仁天皇を実現させたという。と同時に、藤原百川と改名。

だが、その後の展開もまた、あまりに都合がよすぎる。 井上内親王の嫡子・他戸親王を皇太子に推す藤原永手が不審死。

呪術で天皇隠退を図っている、と百川にふきこまれた光仁天皇は、井上皇后を退位させ幽閉。他戸親王も連座の罪で幽閉。そして二人とも、急病で死亡。これにて天武天皇の皇統は絶え、今の皇室に繋がる天智系の復活となった。

娘・旅子を山部親王(桓武天皇)の妃にすると、兄・藤原良嗣に「我の役目は終わった。後を頼む。」と意味深な言葉をのこし急死。死因は非公開。

百川の子・緒嗣も桓武天皇をしっかり支えた高官である。

権謀術数を尽くし、歴史の裏側で天皇制の流れを作り替えた藤原百川。
その人物像とはあまりにも不釣り合いな、ピカピカで軽やかな石碑が、
ここでは今日も静かに立っている。

Googleマップ:藤原百川の墓
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藤原百川の墓の写真一覧

2026/01

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