国史跡なのに、知られていない秘境の古寺跡~神雄寺跡~

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🍁 京都府の史跡

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文廻池の向こうに、天神山がある。
水面に映るその山は静かだが、中央を無遠慮に道路が切り裂いている。
便利になった、と人は言う。
だが、かつてこの山が国家規模の祈りと音楽に満ちていた場所だと知っていたら、同じ言葉を言えるだろうか。

山の周囲をぐるっと一周すると、背の高めのフェンスがはられている、「私有地につき、車両の進入・通り抜けはご遠慮願います。」と看板が出ている、門を固く閉ざしフェンスで囲っている、見りゃわかるだろっ!という暗号的ロープがはってある、と、こんな感じで山への侵入を拒んでいる。そして強引に入ったところでガチ山の中だ。

天神山は、2000年代の土地開発による発掘調査で巨大寺院跡と数々の出土物が発見され一時騒然となった。なにしろ公式記録には明確な記録がいっさいなく、この地にそんな立派な寺院があったという存在すら知られていなかったからだ。

侵入を拒んでいるのは史跡保護の為だろう。出土物は国の重要文化財、神雄寺は国の史跡に指定されている。だが、宣伝することもなく、看板の一つすらも設置されていない。道行く住民に聞いても、そこが国の史跡だということを知らない。「嘘だ~」などと言われる始末。

千数百年間、ひっそりと眠っていた大寺院

今から約1300年前には、天神山の麓から中腹にかけて巨大寺院・神雄寺が建っていた。この辺りは、恭仁京のちょうど右京の南辺付近にあたる。創建時期は、仏堂須弥壇に使用された瓦の年代観から、聖武天皇の天平初年と推測されている。また、出土した軒瓦は長屋王邸跡の出土物と同じである。

三重塔とみられる塔跡や礼拝堂跡が確認され、等身大の四天王塑像断片、楽器や酒器など、儀礼と饗宴を物語る遺物も数多く出土している。 嘗て、神雄寺では、夜通し火を灯して音楽を奏でながらお経や歌を詠むなどする大規模なフェスが行われていたと考えられている。

天神山谷奥の水源からの川を屈曲させ、曲水状池をつくりその周辺で大規模な法会、水源祭祀が行われていた。八千点を超す灯明皿(キャンドルみたいなの)も出土しており、その数、形状、煤跡などから神雄寺で行われた燃灯供養は、国家規模で行われたものである、とされている。

また、仏教の聖なる山「須弥山」の模型(彩釉山水陶器) である三彩須弥山は、これほど立派なものは他に例がなく当時の最高技術でつくられたと考えられている。

以前から思っていた。恭仁京跡は大事にしているようだが、木津川市はどうも史跡の扱いが雑だと。民がお上に逆らった山城国一揆や熊沢蕃山寓居跡などを行政が封印したくなるのは理解できる。しかし神雄寺は恭仁京と並ぶ史跡である。


長い眠りについた神雄寺

神雄寺では、特別に大規模な仏教法会、燃燈供養、読経、楽の演奏、歌の朗詠等が行われていた。都が長岡京へ遷都するときに、神雄寺の役目も多くの寺院と同じくおわったと考えられている。

8世紀末から9世紀初頭の間に大規模な火災にあい仏堂焼失。仏像に埋め込まれた目のガラスが溶けて流れ出るほどの火災だった。川も大半が埋没。

10世紀前半には全ての塔が焼失し埋もれ忘れ去られた。万葉集の歌が書かれた木簡や墨書土器などから大伴家持との関係が目されており、当時の貴族や僧侶たちの風流な交流がここで開かれていた様子がうかがえる。

フェンス越しに山を見上げながら、これほどの史跡が「なかったこと」のように扱われている現状が、どうにも腑に落ちなかった。

Googleマップ:神雄寺跡
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