四ノ宮泉水町の小さな祠へ ― 隠れた路地の先に眠る、人康親王の記憶

四ノ宮泉水町の小さな祠へ ― 隠れた路地の先に眠る、人康親王の記憶

🍁 京都府の史跡

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家と家の塀のあいだに、人一人が通れるだけの細い小道がある。
初めて来た人なら十中八九こう思う——

「いやこれ…人んちの敷地じゃない?」

でも違う。これが史跡への“正規ルート”だ。
ためらいを押して奥へ進むと、突然ぽっかりと空が開け、小さな広場に出る。

ここが 四ノ宮泉水町広場 ― 目の神様 の祀られた場所である。

広場といっても、花壇サイズほどの極小エリア。
ただ、ここには時代の層がぎゅっと凝縮されている。


◆ 三つの祠 ― 琵琶・山伏・そして忘れられた神々

最初に目に入るのは、並んで鎮座する三つの祠だ。

● 四宮大明神

琵琶・琴の祖として敬われ、

  • 人康親王(天世命)
  • 琵琶法師(月世命)
  • 稲荷大明神

の三柱を祀ったもの。
つまりここは“音楽の聖地”だった。

● 神変大菩薩(役行者)

隣には格子戸つきの祠があり、こちらは役行者を祀る。
修験道の祖・役行者は、後の1799年に光格天皇から
「神変大菩薩」 の名を贈られた人物。

このあたりは、音羽山を越えると三井寺(園城寺)がある。
その再興者・智証大師円珍が役行者を深く信仰していた縁で、
この祠も自然とここに置かれている。


◆ 山に降る雨が“聖なる水”に変わる土地

山科の四宮あたりは、山に降った雨が地下水となって湧き出す“泉の土地”。
この場所が 泉水町(せんすいちょう) と呼ばれる理由でもある。

修験者にとって、水は修行の要。
役行者の祠が水源とセットで存在するのは、ごく自然な配置なのだ。

そしてこの“水の聖地”に魅かれて住んだ一人の皇子がいる——
人康親王 である。


◆ 人康親王 ― 視力を失い、音楽と盲人を導いた皇子

人康親王(831〜872)は、仁明天皇の第四皇子。
母は藤原氏というエリート中のエリート。
聡明・楽器の才・容姿端麗、若い貴族(公達)たちの憧れの存在だった。

しかし、28歳で突然病に倒れ、視力を失う。
盲目は皇族にとって“政治の表舞台に立てない”ことを意味した。

それでも人康親王は腐らなかった。
出家し、山科に山荘を建て、
盲人たちを集め、管弦と詩歌を教え、生き方を示した。

彼の周りには常に人が集まった。
音を聞くだけで勇気づけられるような人物だったのだろう。


◆ “泉が湧いた日”と“片葉の葦”の伝説

山荘の庭には泉があった。
人康親王はそこで毎日、目を洗ったと伝わる。

さらに、こんな伝説も残る。

失意の日、親王が足を撫でたとき、

彼の涙とともに泉が湧き出た。

それが 御足摺池(みあしずりのいけ) である。

そしてもうひとつ。

盲目の親王が寂しさを紛らわすように葦を撫でていると、

葦は親王の邪魔にならないよう、

片側だけに葉をつけるようになった。

今もこの“片葉の葦”の話は語られている。
どれほど愛された人物だったのか、伝説の内容だけで伝わってくる。


◆ 忘れられた祠を蘇らせた人々

じつはこの四ノ宮大明神、明治以降の疎水工事や鉄道敷設で
何度も移動させられ、最後は放置されていた。

山の麓 → 別の場所 → さらに南へ…

完全に忘れられた神様になりかけていたところ、
大正4年(1915年)、地元の名士・松村輿三郎氏が再発見。
泉の石垣を修復し、祠を再建した。

その後、また荒れ果てたが、地元の有志が清掃と修理を続け、
平成27年(2015年)、三井寺に寄進され今の姿となった。

人康親王の祈りと、地元の人たちの手が合わさり、
この場所はようやく息を吹き返したのだ。


◆ 結び ― いまも静かに“目の神様”として息をしている

御足摺池はもう水を湛えてはいない。
湧き水も消え、かつての泉の姿は石の輪郭として残るだけ。

それでも、ここに立つ祠は今日も、

“眼病平癒の神”

として静かに参拝者を迎えている。

隠れた路地の先で、
ひっそりと、けれど確かに息づいている小さな聖地。
その背景には、盲目の皇子が遺した優しさと、
地元の人々の記憶が重なっている。

Googleマップ:琵琶琴元祖四宮大明神

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