🍁 京都府の史跡
今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。諸羽神社と地続きで隣にあるのが、人康親王が隠棲したという山荘址。
鬱蒼とした木々に囲まれ、小道を上がると、緑の光に包まれた静かな広場に出る。
かつては川も滝も流れ、自然そのものを“屋敷”にしたような風雅な山荘だったという。
人康親王(831〜872)は、仁明天皇の第四皇子として生まれた。
藤原氏を母に持つ、生まれながらのエリート。聡明で、楽器に秀で、容姿も評判。
在原業平とも親戚関係にあたり、多くの若い公達から慕われた。

しかし28歳で病を患い、視力を失う。
当時の皇族にとって、身体の不自由はそのまま政治の表舞台からの退場を意味した。
人康親王は出家し、弟子たちとの交流も断ち、山科へと隠棲した。
──ここからが、人康親王の真価だ。
都に残って贅沢に生きることもできたはずの彼は、
盲人たちを集め、音楽を教え、言葉を交わし、自らの所領や財を分け与えた。
ただの「同情」ではない。
目が見えない彼らに“生きる道”を与えた。

そのため、彼の周囲には盲人たちが集い、音が重なり、笑いが生まれた。
晩年、人康親王は、彼らが奏でる琵琶の音色に包まれて息を引き取ったという。
人生の最期まで、人が集まり続けた。
山科区の「四ノ宮」という地名は、仁明天皇の四番目の皇子──
すなわち人康親王に由来する。
死後、母・藤原澤子は、彼を支えた盲人たちに検校・別当・匂当・座頭といった官位を与え、
琵琶・箏・三弦・鍼灸などの技術を守らせた。
当道座の歴史の始まりである。
(映画『座頭市』は、この当道座の最下位“座頭”。
つまり、市は“階級としては最底辺”だが、彼らの技は人康親王の流れにある。)

人康親王の生涯は、いつも“人”に囲まれていた。
皇族と聞くと、権力争い、傲慢、贅沢、庶民搾取──そんなイメージが正直つきまとう。
だが、その中で彼だけは異質だった。
泥水の中に突然ひとつだけ咲いた、凛とした蓮の花。
そんな存在だったのだろう。








コメントを残す