🐚 三重県の史跡
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伊勢の城のなかで、ここほど「時代の境目」を象徴する城はない。
津城――藤堂高虎が設計し、徳川時代を通して津藩の中枢であり続けた城。
だがその始まりは、戦国の混乱のただ中にあった。
そして終わりは、明治維新という“新しい時代”の幕開けに溶け込むように訪れる。
津城はまさに、「戦国の終わり」と「平和の始まり」をつなぐ要だった。
織田信包の城
1558年、安濃川と岩田川、2つの川が流れる三角州に、細野藤光が小さな安濃津城を築いた。細野藤光は北畠家の一員として戦国時代を戦ったが、細野家はわずか2代(藤光、藤敦)で安濃津城を手放した。1568年、織田信長が伊勢に侵攻した時に、安濃津城は織田勢の支配下に入ったからである。津田一安が入城。
1569年には織田信長の弟・信包(のぶかね)が入城。信包は城郭を本格的に拡張・整備し、石垣を組み、川の水を外堀にひきこみ、1580年頃には五層の天守を持つ近世城郭へと発展させた。
海に面した地形を活かし、舟運と防御を兼ね備えた巧みな城づくりだった。
1595年の豊臣時代には、富田一白が城主となった。
関ヶ原の戦いの数か月間、富田信高(一白の長男)は、家康率いる東軍方につくことを決めた。1600年8月には各地で東軍方と西軍方の戦闘がおきていたが、安濃津城は、毛利秀元・長曾我部盛親軍に攻められ城の大半を焼失し開城。西軍3万人に対し1700人での攻防だった。9月15日の関ヶ原の戦い後、奮戦したと家康に評価された信高は2万石の加増となった。1608年に宇和島藩(愛媛県宇和島市)に移封となり、藤堂高虎が伊予国今治から移封させられ津城城主となった。
藤堂高虎へ
のちに関ヶ原の戦いで功を立てた藤堂高虎が津に入り、旧城を大改修。
これにより、津城は近世的な「居城」として完成する。
彼の築いた石垣は、今もなお市街地の真ん中に静かに残っている。

城下町の始まり
高虎は城の周囲に町割りを行い、城下町津の基礎を築いた。
堀川を整備し、水運を活かした物流都市としての性格をもたせた。
寺社を配置し、防衛と信仰を両立させる“バランスの町”――
その設計思想は、後世の城下町にも大きな影響を与えた。
津の町はこうして、「商い」「学問」「文化」を併せもつ都市として成長する。
つまり、津城は単なる軍事拠点ではなく、人の流れと文化の中継点でもあった。

天才的経済手腕 藤堂高兌
津藩は商業が栄え城下町(町人)経済は潤って活発だった。しかし、藩(津藩藤堂家)の財政は次第にかたむいていった。代々の藩主の時代を通じて、地震、天災、凶作が相次ぎ、農民からの年貢収入は不安定になり藩の収入が減少。一方、被災者支援や飢餓対策や復旧工事で多額の費用を費やす必要があり、支出が増大。
また、幕府の命により各大名に課せられる公共事業(城の修復や河川工事など)への手伝い普請により、津藩も多額の出費を強いられ藩財政を圧迫した。
津藩10代藩主・ 藤堂高兌も津6代目・7代目・9代目藩主に続く、津藩の支藩である伊勢久居藩からの養子である。藤堂高兌は久居藩主時代に藩財政の改革を行い大きな成果を上げている。
高兌は、1797年に藩士の知行や扶持米のうち、100分の1を積み立てる「義倉積米」制度 を制定。資金を公的に用い、私的な使用を厳禁した。この制度は廃藩置県まで継続され、最終的に11万6800両もの積立金となった。
他にも法令の整備、行政機構の改善、綱紀の引き締めなどを行い、本格的な改革は約9年間だったものの乱れていた藩政が立て直され、安定化した。

津藩主になってからは、津藩財政の改革を断行。藩士の規律を引き締め、無駄な出費を減らし、植林や養蚕などの産業奨励をし、藩の収入源の多様化と強化を行った。高兌の時代に、津藩は一時的に財政を回復させ、倹約した支出から津藩校有造館 や伊賀の藩校崇広堂(有造館の支校 として伊賀・大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため)を創設 し、人材育成に力を注いだ。
これにより、300以上あった諸藩の中で、津藩は文藩として有名になった。
明治維新と城の終焉
明治4年(1871)、廃藩置県。
津藩は安濃津県となり、のちに三重県へと統合される。
このとき、津城は廃城令により取り壊し。
石垣と堀だけが、かろうじて町の中心に残された。
かつて藩の権威を象徴した天守台は、今では桜の名所となっている。
人々が花を見上げて笑う場所――
それは、戦国の終焉に芽吹いた“平和の証”でもある。
津城の静かな現在
いま津城跡を歩くと、堀の水面に高虎の築いた石垣が映り込む。
四百年以上も風雨にさらされながら、
その線は驚くほど美しい。

堀端に立つ藤堂高虎像は、右手に指揮棒を掲げて町を見つめる。
その視線の先には、かつて伊勢上野城が、
そしてその奥には幕末の津偕楽公園がある。
津城は今も、「時代の軸」として二つの時代を結び続けている。
戦国の血を洗い流した海の城。
幕末の夢を見送った石垣の城。
そして、今も町の真ん中で静かに息づく津城。
この城こそ、「時代の転換」を無言で見守り続けてきた証人である。
地図とアクセス
津城は、近鉄・JR「津駅」から徒歩15分ほど。市街地の中に突然現れる石垣と水堀が印象的だ。城跡は「津城跡(お城公園)」として整備されており、入徳門・高虎像・庭園・詩碑など見どころが点在している。
石垣の上から堀を見下ろすと、藤堂高虎の築城美学がいまも呼吸しているように感じられる。

津城は、戦国から江戸、そして明治へと時代を超えながら、
人の手によって壊され、また築かれ続けてきた城だ。
信包の五層天守、高虎の高石垣、そして財政を立て直した英主たち。
そのすべてが、いまは静かな公園の中に息を潜めている。
城というのは、単なる石や木ではなく、人の信念や欲望、理想の記録だ。
津城を歩くと、その「人間の痕跡」が確かに見える。
石垣の角度ひとつにも、計算と執念と美意識がある。
観光地というより、「歴史と対話する場所」。
そんな津城の空気を感じながら、
ぜひ一度、時間をゆっくりかけて歩いてみてほしい。
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2019/10






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