🍁 京都府の史跡
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人影もまばらな静かな公園に、実は戦国のドラマがぎゅっと詰まっている。ここが細川ガラシャの輿入れ先として知られる勝龍寺城跡だ。

まず驚くのは「無料」。城跡の整備も行き届き、堀や石垣、門跡までしっかり見られるうえに、頼めばボランティアガイドが無料で案内までしてくれる。観光地の“課金要素”に慣れた身からすると、「えっ、タダでここまで?」とちょっと拍子抜けするくらい良心的だ。
そして、この城にはやっぱり“ガラシャ”の名が欠かせない。
光秀の三女として生まれ、細川忠興に嫁いだ女性――後にキリシタンとなり、戦乱のただ中で壮絶な最期を遂げる。城内の石碑や説明板を見ながら歩いていると、彼女の姿が一気に身近に迫ってくる。

もっとも、忠興の性格は短気で嫉妬深く、DVモラハラ夫そのもの。仲睦まじい美男美女夫婦として語られる一方で、実際には殺伐とした夫婦生活も垣間見える。
史実のディテールを知れば知るほど、ここに流れていた“夫婦の空気感”を想像して複雑な気持ちになる。

ガラシャと忠興 ― 美男美女の影に潜む現実
細川ガラシャ(玉)と細川忠興は「戦国一の美男美女夫婦」として伝わる。だが、その評判の裏には、見過ごせない“影”がある。
忠興は武勇に優れ、文化人としても知られる人物だったが、同時に短気で激昂しやすく、嫉妬心の塊だった。
史料には、ガラシャが使用人の男性と口を利いただけで忠興が烈火のごとく怒り、その男を惨殺したと記録されている。さらにガラシャがキリスト教に入信した際には激怒し、彼女を一時的に軟禁状態に置いたとも伝わる。
こうした背景を踏まえると、「仲睦まじい夫婦」という表現は額面通りに受け取れない。
むしろ、忠興の暴君ぶりに耐えながら、家のために役割を果たし続けたガラシャの姿は、戦国時代に生きた女性の苛酷さを象徴しているようにも見える。
…もっとも、現代なら間違いなくワイドショーで「DVモラハラ夫と宗教妻」特集を組まれていただろう。歴史的悲劇と呼ばれるものも、視点を変えれば案外俗っぽい人間模様に過ぎないのかもしれない。

戦国版レンタルスペース!? 勝龍寺城の「残念すぎる」歴史
勝龍寺城の歴史をざっくりまとめると――
「誰かに利用されて、用が済んだら即ポイ」。これに尽きる。
南北朝時代に築かれてから、基本は空き家。応仁の乱では畠山義就が勝手に改造して使い、戦況が変わればハイ次、さようなら。細川家の内輪揉めでも「とりあえず勝龍寺でいいか」と臨時利用され、また放置。戦国武将にとっては、便利なときだけ借りる戦国版カラオケボックスみたいなものだった。
やっと脚光を浴びたのは細川藤孝・忠興時代。織田信長の命で大改修され、ガラシャの輿入れ舞台にもなった。ここがピーク。だがそれも一瞬。すぐに戦乱に巻き込まれ、最後は光秀の敗走劇で「一晩だけの仮宿」に成り下がる。天下を取ろうとした男がここで息を整え、夜逃げして斬られたのだから、城としても屈辱的なエピソードだ。

江戸時代には再建の話すら出たが、「水はけ悪いし不便だし」で即ボツ。城としての価値は完全にゼロ査定。最終的に残ったのは、「ここで○○が一夜過ごした」とか「ここでガラシャが嫁いだ」みたいな“人の記憶”だけだった。
要するに勝龍寺城は、「主役になれない脇役のまま、歴史に振り回され続けた哀れなキャッスル」。
今こうして公園として整備されているのも、「無料ならまあ寄ってもいいか」レベルで、人間の都合に最後まで振り回されているのかもしれない。
哀愁漂う勝龍寺城の栄枯盛衰
勝龍寺城の歩んだ歴史は、まるで気まぐれに振り回される舞台役者のようだ。
南北朝の時代に細川頼春が築いたものの、長く無人。応仁の乱で畠山義就が拠点にすれば、すぐに放棄。細川家の内紛でまた使われ、また放置。戦国大名たちにとって、勝龍寺城は“必要なときだけ呼ばれる便利屋”のような存在だった。
やがて光を浴びたのは、細川藤孝と忠興の父子が城主となった時代。織田信長の命を受け、近世城郭として改修され、ここでガラシャが輿入れした。まさに「最盛期」と呼べる瞬間だ。文化人でもあった藤孝は、和歌や古今伝授を通して一族の名を高め、忠興も武勇と文化両面で名を轟かせる。勝龍寺城は一時、戦国の舞台におけるスターだった。
だがその栄光は長く続かない。
1582年、明智光秀が本能寺の変を起こすと、勝龍寺城は再び戦場のただ中へ。光秀は秀吉軍と山崎で激突し敗走、夕暮れにはこの城へ逃げ込み、夜陰に紛れて脱出した。結局は落ち武者狩りに遭い、無残な最期を遂げる。

その後も細川家の収入源として名だけ残ったものの、江戸時代に再興の話が出ても湿地の悪条件から断念され、完全に見捨てられた。
……こうして並べてみると、勝龍寺城の歴史は「利用しては捨てる」の繰り返し。戦国大名たちにとっては便利な道具、いわば“戦国版レンタルスペース”だった。
光秀ですら最後はここを「一晩の宿」として使って夜逃げしたのだから、城そのものに忠誠を求めるのは酷というものだろう。
勝龍寺城は、利用されては捨てられる“戦国版レンタルスペース”として笑い飛ばせる一方で、確かにここでは数えきれないほどの人々が、命を懸けて戦い、愛し、苦しみ、選択してきた。
その一つひとつが、今の私たちから見れば「残念」にも「哀愁」にも映るけれど、当時の彼らにとっては必死の生だった。
静かな公園を歩いていると、そんな人間模様がふっと蘇ってくる。
無料で訪ねられる小さな城跡は、決して豪華ではないけれど、戦国の「人間くささ」をじんわり感じさせてくれる場所だ。

勝龍寺城跡 写真一覧





























































































































































勝龍寺城跡 2025/05・09





































勝龍寺城 土塁・空堀跡 2025/05






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