🍑 岡山県の史跡
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岡山県高梁市の臥牛山 山頂(標高約430m)にある備中松山城は、日本で唯一天守が残る山城。岩村城(岐阜県)、高取城(奈良県)と共に日本三大山城の一つに数えられています。
ふいご峠駐車場から登城開始。江戸時代、この地には刀を打つための大きな“ふいご”があったため、この名がついたのだとか。かつては御根小屋から太鼓丸、中太鼓を経由して太鼓や煙で合図を送ったと伝えられています。

登山道を進むとまず驚かされるのが、自然の岩盤を巧みに利用した石垣。大手門脇に築かれた足軽番所は圧巻で、山城ならではの工夫が目に飛び込んできます。さらに進むと、国指定重要文化財の「三の平櫓東土塀」。約400年前に水谷勝宗が築いたもので、今も当時の土が詰まっていると思うと感慨深い。

厩曲輪には馬をつなぐための門跡が残り、そこからさらに二の丸まで登らないと天守が見えない構造になっています。徹底した防御設計に感心。
本丸東御門は「当時からオートロック」といわれるほど厳重で、見回りの兵が出るときは特別な鍵棒が必要だったとか。二重櫓は天然岩盤の上に築かれ、西側は急斜面。石落としや裏口への脱出口が備えられ、戦時の工夫を物語ります。
国指定文化財の天守は、昭和15年の修理で朽ちた柱を新材と接ぎ木して修復されました。内部には囲炉裏があり、籠城時の食事や暖を取るために用いられたという珍しい構造。上階には「御社壇の間」があり、水谷勝宗が修築時に神々を祀った跡が残されています。

そして最も心に残ったのは「装束の間」。籠城時の城主の部屋で、万一の際は自害するための空間。床下には石が敷かれ、忍者でさえ忍び込めない造りになっていました。戦国から江戸を通じ、人々が本当に命懸けで生きていたことを肌で感じさせられます。
📜 歴史編
備中松山城の始まりは1240年、秋葉三郎重信がこの地に砦を築いたことにさかのぼります。その後、高橋氏や上野氏、三村氏らが城主となり、戦国時代には臥牛山全体が要塞化。三村元親は織田方に与して毛利・宇喜多連合と戦い、ついに敗れて自刃しました。
関ヶ原後、小堀遠州父子が大規模な改修を行い、江戸時代初期には水谷勝宗が天守・櫓・門を整備しました。さらに川や港を整備して藩の経済を発展させ、5万石から11万石に加増されるほどの繁栄を築きました。しかし水谷家は跡継ぎを欠き、ついに断絶。浅野家の大石内蔵助が仲介して無血開城が実現しました。
江戸後期には板倉勝静が城主となり、幕末の動乱の中で老中首座を務めました。大政奉還の草案を練ったとされる山田方谷は、この備中松山藩の藩士です。勝静自身は徳川慶喜と行動を共にし、函館五稜郭にまで及びました。
明治の廃城令以降、城は荒廃し、人々に忘れ去られました。昭和2年に高梁中学校の教師・信野友春氏が再発見し、保存運動が始まります。もし彼の赴任が数年遅ければ、天守も櫓も跡形もなく崩れ去っていたと言われています。

備中松山城は、現存する唯一の山城天守を持ち、鎌倉から幕末までの激動を見届けてきました。城下の町と山城が一体となった姿は他に類を見ません。険しい登山の果てに出会う石垣や天守、そして幾重にも折り重なる歴史は、訪れる人の胸を必ず打つでしょう。
備中松山城は、岡山県高梁市の臥牛山(標高430m)の山頂にあります。
最寄りのJR備中高梁駅から車で約10分の「ふいご峠駐車場」が登山口。そこから20分ほど山道を登ると天守にたどり着きます。雲海に浮かぶ「天空の城」としても知られ、秋から冬の早朝には幻想的な光景に出会えることもあります。

🏯 山城トリオ制覇への道
👉 龍王山城(大和国一の比高を誇る山城)
👉 高取城(日本三大山城・日本最大規模の山城)
(※雑賀城・大和郡山城などは今後追加予定!)
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2021/11






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