奈良時代の天皇といえば?と聞かれて、「あー、東大寺の大仏つくった人ね」と答えるあなた。
はい、その人です。聖武天皇。
ただしこの方、大仏を建てただけじゃない。
とんでもない行動力と、謎すぎる意思決定で、
今なお歴史クラスタをザワつかせている、
“アンケートしておいて無視する男”として知られています。
今回は、そんな彼のとんでも伝説をまとめてみました。
◆藤原家と濃厚すぎる血縁関係
実母は藤原不比等の娘・宮子。
お妃(皇后)も藤原不比等の娘・光明子(安宿媛)。
つまり、母も嫁も祖父も全部・藤原不比等の関係者という、
ド濃厚な一族内ループ構成。
さらに、母・宮子は出産時に精神を病み、
実家(藤原邸)で軟禁され、聖武天皇はそのまま祖父の元で育ちます。
……ちょっと育成環境ハードすぎません?
当時の政界のエリート中のエリート、長屋王。
その息子はすでに成人しており、誰もが「こっちが皇太子かな?」と思っていたところ、
突如、聖武天皇は生まれて30日の我が子(基王)を皇太子に任命。
もう全員「えぇぇ!?」状態。もちろん前代未聞。
そして基王、翌年にはお亡くなりに。
聖武天皇と別の女性・県犬養広刀自の間に男子・安積親王が誕生。
焦ったのが、藤原不比等の四兄弟。
「これはまずい。光明子(妹)をなんとしても皇后にしなければ!」
↓
でも長屋王が「皇族じゃない女性を皇后にするのはダメ!」と反対。
↓
じゃあ…ということで、長屋王が呪詛をした!とデッチ上げて事件に。
結果、長屋王一家は自害。光明子は皇后に。
藤原四兄弟は政権トップに一斉登用。
政界、ゴリゴリの藤原支配へ。
その後、天然痘が大流行。
藤原四兄弟、まさかの全滅。
政治中枢が一気に空席だらけに。
で、聖武天皇、何したと思います?
なんと、「じゃあ娘を皇太子にしよう!」
と、前代未聞の女性皇太子(阿倍内親王)を任命。
これ、今でも日本史で唯一の「女性皇太子」なんです。
娘・阿倍内親王の皇太子任命からしばらく――
政界ではある人物が頭角を現してきます。そう、藤原仲麻呂(後の恵美押勝)です。
でもその直前に、気になる事件が起きています。
それが、安積親王の謎の死。
安積親王とは、聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた男子で、成長とともに聡明さを評価され、次期天皇候補として超有力視されていた人物。
なのに突然、宴席の後に体調を崩し、急死。
毒殺疑惑がささやかれる中、誰が得をしたかと言えば――
そう、藤原仲麻呂。
彼はこの直後から、政界で急上昇。
聖武天皇の娘・阿倍内親王(のちの称徳天皇)に取り入っていきます。
安積親王が生きていたら、この国の未来はどう変わっていたのか?
そこに**「藤原の影」**を感じてしまうのは、歴史クラスタの性(さが)というものです。
●藤原広嗣の乱が起こる
↓
●放置して突然「旅に出ます(by聖武)」
↓
●そのまま恭仁京に遷都(740年)
↓
●「都、どこがいい?」とアンケートを実施(744年)
→182票:恭仁京、153票:難波、1票:平城京
結果、なんと得票数を無視して難波宮に遷都強行。
アンケートの意味とは。
しかも難波滞在わずか40日。すぐに紫香楽に遷都を宣言。
この間、国民はもう引っ越し荷造りに追われて大混乱。
紫香楽でも山火事・地震などの災害続出。
聖武天皇:「もう一回アンケート取るわ!」
↓
満場一致で「平城京がいいです!」
↓
今回はちゃんと聞いて、平城京に帰還。
これはもう、自由すぎる神経と、最後の一滴だけある良心の合わせ技。
743年、「よし、大仏つくろう!」と大仏建立を詔。
これにより、国分寺&国分尼寺&大仏&都遷都が同時進行。
当然、民衆の税負担は爆増。
庶民は逃亡&野垂れ死に続出。
もはや宗教ロマンと引き換えに、民は地獄。
大仏は752年にようやく開眼供養。
が、聖武天皇は完成した大仏の後背を見ることなく、56歳で他界。
……なんかもう、最後まで「自由」だった人。
◆まとめ
皇太子、自由に決める
ライバル一族は呪術で処理(疑惑)
娘を皇太子に
遷都3回+アンケートはするけど無視
最後は仏像に全振り
政治・宗教・都市計画・税制、何をとっても
前例無視の“自由天皇”だった聖武天皇。
彼がいなければ、恭仁京も、東大寺の大仏もなかったわけで。
……歴史って、わからんもんですねぇ。
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