一揆、それは暴動ではなく「自治」だった
今日も来てくれてありがとう!よければ一押しポチっと応援してってね〜。「一揆」と聞くと、鎌や鍬を手にした農民たちが怒号をあげる暴動を思い浮かべるかもしれない。しかし、ここ山城の地で起きたのは、まるで別物だった。
この“山城国一揆”――それは武士と農民が手を取り合い、「国を自分たちで治める」という前代未聞のチャレンジだったのだ。しかもその舞台は、将軍様のお膝元・京都のすぐ南。なかなかに大胆すぎる試みだった。
応仁の乱の果てに:狛城と南山城の地獄絵図
すべての始まりは、畠山家の跡目争いで幕を開けた応仁の乱。田辺城、草路城、狛城――南山城の地は戦火にまみれ、狛秀盛ら国人たちは、畠山義就率いる大軍に翻弄された。焼け落ちる村々、略奪と暴力、飢餓と疫病。かつての豊かな土地は、まるで地獄の再現だった。
義就は税を免除し、地元にヒーローのごとく迎えられ、政長は幕府に見捨てられ、そして狛秀盛は一族を失いながらも命からがら生き延びた。
カオスの果てに芽生える“地元による自治”のビジョン
狛秀盛は、南山城の国人たち一軒一軒を巡り、「もう幕府にも義就にも頼らず、我らでこの地を治めよう」と呼びかけた。長年いがみ合っていた地元勢力の結束は簡単ではなかったが、戦火と混乱が「このままではダメだ」と背中を押した。
狛野荘を中心に、国人たちは関所を勝手に設置し、通行料を徴収。地元の交通・経済も、もはや中央ではなく“民間”の手に渡っていた。

石清水八幡宮フェス:農民も馬借も武装して集結!
そして、1485年12月11日――南山城の36人の国人たちが石清水八幡宮に集まり、三大要求を突きつけた:
- 畠山両軍はこの地に立ち入るな!
- 外部の代官はお断り!
- 新たな関所はもう作るな!
農民、商人、馬借人まで武装し、河原で「もう出ていけ!」と声をあげた。
越智家栄と狛秀盛の交渉により、畠山義就はついに撤退を承諾。
血を流さずに勝利した、奇跡のクーデター
12月17日、約2万人の兵が山を下りて撤退。
なんと一滴の血も流さずに、大名たちを追い出すという歴史的快挙を達成した。
この地は“惣国”として再構築され、憲法のような“惣国掟法”まで作られた。
なんとこの自治体制は7年9ヶ月も続いたのである。
山城国一揆の影響:惣と一揆が日本を変えた
加賀の一向一揆、甲賀の郡中惣、伊賀惣国といった地方自治の波は、この山城の動きから影響を受けて広がっていく。
武士でもない、農民だけでもない、地元の「みんな」で話し合い、決め、治める。
これは、ただの一揆ではなく「地域が国家になる」プロトタイプだったのだ。
そして現地へ:史跡に残る静かな熱気
この一揆の痕跡は、今もいくつかの史跡に息づいている。
- 上狛環濠集落跡
- 大里環濠集落大井戸
- 西福寺
- 上狛天竺堂一号墳石室
- 狛弁材天
それらの地を歩くとき、ただ「古いもの」を見るのではなく、 かつてここに生き、戦い、話し合い、国を作ろうとした人々の声を感じてほしい。
まとめ:日本にもあった「もう一つの民主主義」
山城国一揆。それは武士と農民が肩を並べ、血を流さずに中央権力を追い出し、地元の人々が国を治めた奇跡の物語。
これは歴史のドミノの一枚目だった。
その後の日本史における“惣”と“自治”の広がりは、まさにこの一揆が先駆けとなった。
戦国武将たちの豪快な戦いだけでなく、こうした草の根の叡智にも、光を当てていきたい。
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