― 京都府木津川市・平重衡斬首跡を訪ねて ―
京都府の最南端、奈良市と隣り合う木津川市。
JR木津駅から10分ほど歩くと、車通りの多い道から、急に空気が変わる細い路地へと足が向かう。
両脇には古びた家々がぎゅっと並び、道幅は車一台がやっと。やがてその道は、唐突に行き止まりを迎える。
そこでふと右を見ると、小さな看板が目に入る。
「平重衡首洗池・不成柿」――
それは、あの平重衡が斬首された場所だという。

目の前には、川へと続く土手。そしてその先には、今も静かに流れる木津川。
見上げれば、頭上には線路。
古と今とが交差するこの場所で、静かに胸が締めつけられる。
ここで、重衡が処刑されたのか。
そう思った瞬間、なんとも言えない寂しさが押し寄せてきた。
それでもこの場所には、どこかあたたかな空気があった。
車も人もそう簡単には入り込めないこの場所が、
今も静かに、周囲の住人たちによって守られている──そんな気がした。
そして驚いたのは、そのすぐ横にある小さな古い一軒家。
塀も門もなく、地続きのまま斬首跡に面して建っている。
なんとその家の玄関は、まさにこの史跡のほうへ向いて開いていたのだ。
日々ここを見て暮らしている家が、実際にあるのだ。
平清盛の五男、平重衡。
源平の戦乱に翻弄され、ついには興福寺の僧兵により斬られた。
「最後に仏を拝みたい」という願いを聞き入れられ、近隣から阿弥陀仏が運ばれた。
重衡はその仏に向かって念仏を唱え、言い訳ひとつせず、
この木津川のほとりで、1185年6月23日、静かに首を落とされた。わずか29歳だった。
その首はこの地の水で洗われ、般若寺の大鳥居前まで運ばれ、釘付けにされて晒されたという。
胴体は興福寺僧兵によって河原へ打ち捨てられた。
村人たちは、彼の最期を哀れんで、ここに一本の柿の木を植えた。
けれどその柿は、一切の実をつけることなく、
「不成柿(ならずがき)」と呼ばれるようになった。
その木も、今はすでに枯れている。
けれど、代わって植えられた新たな柿の木が、
まるで重衡の魂を包み込むかのように、しっかりと根を張り、青々と葉を茂らせていた。

「池」と呼ばれる場所に水たまりこそあったが、
立派な池の姿は、もうどこにもなかった。
それでもこの場所は、静かに、確かに、
重衡というひとりの若き武将の、最期の記憶を今に伝えている。
― 若き名将・平重衡、その悲劇の道のり ―
平家の栄華を崩すべく、源氏は園城寺や比叡山と手を結び、反平家の包囲網を築いていた。
清盛は、中立を保っていた南都・興福寺を味方につけようと試みる。使者に選ばれたのは右近ノ別当・忠成。
だが、彼が奈良に到着すると、興福寺の僧兵たちはこれを包囲し、忠成とその従者を追い払った。
2度目、3度目の使者も同様。ついには僧兵が武器を手に襲いかかり、逃げ遅れたおよそ70人の従者は斬首された。
その首は猿沢池のほとりにずらりと並べて晒され、なんとその下で、清盛の似顔絵が描かれた毬を槌で転がして遊ぶという……まさに屈辱の極み。
これを知った清盛は激怒する。
命じたのは、平家の五男にして武勇・知略・容姿すべてを兼ね備えた名将――**平重衡(たいらのしげひら)**による南都討伐だった。
当時、他の戦線に兵を割いていたため、重衡の軍勢は約4,000。対する南都の僧兵は約8,000。
倍の兵力を前に、重衡は果敢に挑み、朝から始まった戦は日没まで続いた。ついに興福寺を攻め落とした頃には、すっかり夜になっていた。
僧侶たちは群衆に紛れて逃げ隠れた。
その姿を見つけ出すために灯りが必要になり、火を放つ。
そしてその火は、いつの間にか東大寺の境内に燃え移り、あの大仏殿までも焼け落ちてしまった。
僧侶たちの多くは群衆の中に紛れたまま出ることができず、そのまま炎に巻かれて命を落とした。
──だが、この時代、戦で火を使うのは珍しいことではなかった。
のちに「爆死した武将」として有名な松永久秀も東大寺を焼いているが、彼がそこまで責められることはなかった。
なぜか重衡だけが、“仏敵”というレッテルを貼られ続けたのだ。
その後、平家が都を追われ、一の谷の戦いで壊滅状態になる。
義経が率いる源氏軍が勝利し、戦場には平家の名だたる武将たちの首がさらされる中、
ただ一人、生け捕りにされたのが重衡だった。
都に戻されると、興福寺の僧侶たちは「仏敵!」と口汚く罵り、
石・砂・棒・唾、あらゆるものを彼に投げつけた。
当時の僧侶の多くは、もはや“戦う僧”であり、
信仰というよりも権力と武力に支配された存在だった。
そんな中で、ただ一人、重衡の心を救った人物がいた。
それが、後に浄土宗を開いた法然上人である。
捕虜となった重衡は、法然と出会い、心を打たれた。
自ら受戒し、仏門に帰依する。
武士としての道から、仏の道へ。これが彼の最期の転機だった。
その後、重衡は鎌倉へ送られた。
源頼朝も義経も、彼を「敵でありながら敬意を払うべき人物」として、
丁重に扱ったという。捕虜でありながら、まるで貴賓のような待遇だった。
しかし、南都の僧兵たちは諦めなかった。
鎌倉にまで足を運び、頼朝に対して**「重衡を引き渡せ」と強訴を続けた。**
頼朝は、重衡を守るために警護を強化した。
だが執拗な圧力の前に、ついに――
重衡は、木津川のほとりで、斬首されることとなる。
彼が受戒をし、仏の道に入ってわずか一年後のことであった。
重衡、静かなる終焉の地――
時の流れの中、地図に刻まれしその場所へ。
足を止め、耳を澄ませば、
重衡の静かな息づかいが聞こえるかもしれません。

名もなき風が吹き抜けるこの地に、
今も重衡の物語が、ひっそりと漂っているようです。
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