⛵ 和歌山県の史跡
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和歌山市の城跡山公園(津屋公園)の池は、全面が苔に覆われていて水面が緑一色。どろどろの池で無邪気に泳ぐのは亀だけ。ふと横を見ると「危険 池で遊ばないように」との看板。いやいや、頼まれなくてもここで泳ぐのは亀ぐらいだろう……と心の中でツッコミを入れる。

その池の右端には、古い石で組まれた山上へ続く階段がある。呼ばれるようにその石段をのぼっていくと、人の気配はなく、木々の葉が揺れる音とカラスの鳴き声だけが響く。
途中、崖の中腹に小さな鳥居が現れる。右へ行けば雑賀城跡、まっすぐ行けば山頂。道端には、正体不明の古い石組みが残されていた。これが雑賀城ゆかりのものかは定かでないが、時間を超えて残る石には不思議な存在感がある。

さらに急こう配に沿って斜めに伸びる石垣。雑賀城は築城年代も廃城の時期も定かではなく、残る石垣もいつの時代のものかは不明だという。あの「最強鉄砲集団」の拠点がそんな扱いとは、孫一ファンには少々切ない。もっとも「鈴木孫一」という名は一人の人物ではなく、鈴木重秀を代表としつつ代々の雑賀党首が名乗った称号のようなものだったと考えられている。
やがて道は整備された小道に変わり、その先にあるのが1660年創建の妙見堂。北極星・北斗七星を神格化した北辰妙見大菩薩を祀っている。鳥居をくぐり数段の石段を上ると妙見堂に到着。そこからは和歌山市街と海を望むことができ、雑賀衆がこの地を拠点とした理由がわかる気がした。

妙見堂を過ぎると再び山の香りが濃くなり、急斜面にはまたもや独特の緑色石を用いた石垣らしき遺構が現れる。雑賀衆の面影を探しながら歩くと、風に鉄砲の音が残響しているように感じられた。
🔥 戦国史編
1654年に徳川頼宣(紀州徳川家初代)が建立した養珠寺の裏手には、標高約32メートルの小高い丘が広がる。この丘一帯こそが、戦国時代に最強の鉄砲傭兵集団を率いた雑賀衆の本拠・雑賀城(妙見山城)である。
築城年は不明だが、1532年~1593年頃に雑賀衆の有力者・鈴木佐太夫重意によって築かれたと伝わる。のちにその子・鈴木孫一(重秀)が城主となり、雑賀城を拠点とした。城の東には侍屋敷、西には城下町が存在したとも伝えられる。
雑賀衆は、貿易・漁業・農業・商業・海運・軍事を兼ね備えた自立的な集団であり、鉄砲の扱いに長けた最強傭兵として名を馳せた。

石山合戦では本願寺顕如と共に織田信長と戦い、雑賀城は本願寺支援の軍事・兵糧基地となった。1577年、織田信長の紀州攻めに際し、雑賀衆は雑賀城を本陣に周囲に防御拠点を築き、川底にトラップを仕掛け鉄砲隊で織田軍を撃退。しかし二度目の総攻撃では敗北し、降伏を余儀なくされた。和睦は一時的であり、雑賀衆は本能寺の変(1582年)で信長が討たれるまで抵抗を続けた。
1585年、秀吉の紀州攻めの際、藤堂高虎の計略により鈴木佐太夫は切腹し、雑賀城は落城・廃城となったと伝わる。
雑賀城(妙見山城)は、和歌山市吹上の妙見山(標高約32m)にあります。現在は「城跡山公園(津屋公園)」として整備され、妙見堂や養珠寺と隣接。JR和歌山駅からバスで約15分、「吹上」下車後徒歩10分ほどで訪れることができます。

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