元興寺

元興寺

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鬼とカエルと歴史の吹きだまり

正直言ってしまおう。私は石上神宮推しで、物部派である。だからこそ元興寺?ふーん、蘇我氏の寺ね……と内心ちょいと警戒してしまう。だってあの元興寺、かつて物部を討ち滅ぼした蘇我氏の氏寺だ。敵寺ですよ、敵寺!

でもまぁ、歴史に勝者はつきもの。敗者を徹底的に悪者に仕立て上げて、自分たちのやったことを正当化するのが常套手段。蘇我氏だってずいぶん悪者にされてきた。けれど、対する中臣鎌足――あの藤原氏の始祖――もなかなかの策略家よね。暗殺からの寺占拠、共犯の仲間は用済みで自殺に追い込み、政権奪取。血なまぐさいことこの上なし。

しかも談山神社って拝観料取るのよ。神社なのに。もうね、金のにおいがすごい。そして春日大社では無料で配る鹿形交通安全ステッカーが町中を走り回り、無償広告として大活躍。ああ、さすが藤原一族、ぬかりなし!

一方で、蘇我氏を祀る石舞台古墳や蘇我入鹿首塚は、地元の人々に丁寧に守られ、今なお大切にされている。殺された側の地元は、今でもぶちギレてる感じがあって、なんか、わかるわぁ……。

蘇我と藤原、そして元興寺の壮絶ビフォーアフタ

そもそも元興寺は、蘇我氏が飛鳥に建てた日本初の本格寺院・飛鳥寺(法興寺)が出発点。ところが平城京遷都に伴って、「飛鳥寺もお引っ越しお願いしまーす」と言われるも、頑として動かず。しびれを切らした朝廷が新しく寺を建て、強引に元興寺と命名。やってること、けっこう無茶。

しかも、藤原氏は自分たちの寺・興福寺を天皇の内裏を見下ろす高台に建立。その真下に蘇我氏の寺である元興寺を配置。まさに物理的にも精神的にも「見下してる」設計!

元興寺は当初、南北四町・東西二町という広大な寺域を持ち、七堂伽藍を構える大寺院だった。しかし時代とともに衰退。平安期には雨漏り、瓦落下、大木侵入、僧坊崩壊などなどボロボロに。もう完全に「ビフォー・アフター」の『ビフォー』状態。

そして鎌倉期には浄土信仰とともに再び注目され、智光曼荼羅が信仰の中心に。智光法師の見た極楽浄土を描いたこの曼荼羅、もともとはただの僧坊に飾ってたんだけど、拝み倒されて本堂化。寺の構造すら変えていくほどのパワーアイテム。

その後、土一揆や火事により大伽藍は焼失。極楽堂と禅室(春日影向堂)だけが残され、町家が境内を占拠するようになってしまった。今でこそ「ならまち」として風情あるエリアだけど、昔は「寺の敷地ぶんどり村」だったわけです。

境内からは元興寺の礎石がボロボロ出土し、あるときは古美術商が礎石を売って土地代より儲けたなんて話も。もうお寺というより、トレジャーハンターの狩場。

元興寺の見どころ:鬼・仏・蛙

さて、今の元興寺では、いろんな時代の瓦(飛鳥時代の赤瓦、奈良時代の普通瓦)がミックスされ、まるで歴史スムージー。そして極楽堂の前に並ぶ植木鉢の蓮、これがまた可愛い。でも種は……キモイ。虫みたいなあのビジュアル、保護色なのか? 天敵避けなのか?

堂内にはびっしりと寄進の記録が刻まれ、極楽堂・禅室はそれぞれ、当時の大部屋僧坊&個室化僧坊を再現。さらに法輪館には空海作とされる像や、高さ5.5mの五重小塔、平安時代の阿弥陀如来坐像、さらには1381年のDV離別祭文まで展示。人間の業はいつの世も変わらない。

極めつけは「蛙石」。元は秀吉が気に入った大阪城の石。大阪城で事故多発 → 嫌われて投棄 → 昭和に元興寺で発見・供養 → 今では「福カエル」として人気者。人間ってホント、なんでも拝むんだな。

鬼の寺、されど魅力的

こうして見ていくと、元興寺って「鬼の寺」だの「祟りの寺」だの言われながらも、人間の欲望、信仰、裏切り、復活と、すべてを呑み込んで今に至る。だからこそ、ここはただの史跡じゃなくて、人間の縮図みたいな場所。

気軽に立ち寄れて世界遺産。かつての巨大寺院の面影に触れ、グロテスクな蓮の種に震え、カエル石に願いを託す。まさに歴史という名のサバイバルパーク。興味本位でも、ちょっとだけでも、ぜひ立ち寄ってみてはいかが?


かつての広大な元興寺、今はならまちの片隅にひっそりと息づいています。以下の地図を頼りに、鬼も仏もカエルもひしめく元興寺を歩いてみてください。

Googleマップ:元興寺

敗者の歴史は、時に勝者以上に雄弁に語る。元興寺はその語り部。鬼の寺で、きっとあなたの心に何かがカエル。


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