指月伏見城跡の石垣と城外之庭を歩く|マンションに眠る豊臣秀吉の城跡

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マンション建設前に発掘された指月伏見城の石垣

ライオンズマンション伏見桃山指月城 西側に移築された石垣展示

2015年の発掘調査で見つかった東側石垣

2015年、マンション建設前の発掘調査で、指月伏見城の堀東側に面した石垣が発見された。
南北約36メートル、深さ約3メートルの堀跡に沿ったものだ。

石垣展示がある「ライオンズマンション伏見桃山指月城」

発掘後、この場所には「ライオンズマンション伏見桃山指月城」が建設され、石垣の一部は西側に移築・展示されている。
住宅街の中にひっそりと立つ石垣は、Googleマップでは「指月伏見城跡」と表示される。
その表示を信じて訪れると、一瞬「これだけ?」と拍子抜けするかもしれないが、歴史に思いを馳せれば脳内は壮大な光景で満たされる。


指月丘の歴史と伏見殿の時代

平安時代〜室町時代の皇室別荘地

平安時代、この指月丘には、平等院を建てた関白・藤原頼通の子である橘俊綱が壮大な伏見山荘を造営した。
鎌倉〜室町時代にかけては、後白河院や伏見院、花園院など、歴代の法皇が隠居所として「伏見殿」を営んだ。

観月の名所としての指月丘

伏見殿は上御所(指月の森付近)と下御所(巨椋池近くの舟戸御所)に分かれ、観月の名所として都人に愛され、皇室の別荘地として栄えた。


豊臣秀吉が築いた伏見指月城

築城開始から豊臣政権の中心地へ

安土桃山時代、1591年に豊臣秀吉がこの地に隠居所の建設を開始。
築城名人・藤堂高虎らが関与したとされ、1592年に竣工。
当初は甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲った後の隠居所とする予定だったが、翌1593年に秀吉の嫡子(真偽は諸説ある)秀頼が誕生。
計画を大幅に変更し、大規模改修を経て本格的な城郭として完成、豊臣政権の中心地となった。

考古学調査でわかった城郭の規模と構造

調査によると、指月丘は面積約10ha、堀の幅約30メートル、深さ15メートル。
北西角の石垣や巨大な堀跡も確認され、天守や金箔瓦を備えた豪華な城郭だった。

発掘調査結果や城の歴史を説明する案内板


南東隅では柱間隔5.7mの地下式礎石が発見され、高層の望楼や主要建物だった可能性が高い。観月の絶景スポットとしての設計も見られる。


慶長伏見地震と指月伏見城の終焉

地震による大破と木幡山への移転

1596年、慶長伏見地震により城は大破。
秀吉は木幡山へ城地を移し、新たに伏見城を築いた。

廃城後に地下へ眠った遺構

指月伏見城はわずか4年で廃城となり、遺構は地上から姿を消した。
2025年6月、個人住宅の建て替えに伴う調査で本丸想定地から初めて建物遺構が出土。地下式礎石や金箔瓦片が確認された。


伏見城「城外之庭」と庭石

観月橋北詰交差点に残る堀跡の可能性

観月橋北詰交差点中央にある「伏見城 城外之庭」

石垣展示のあるマンションから徒歩数分、観月橋北詰交差点の高架下に「伏見城 城外之庭」と呼ばれる場所がある。横断歩道の真ん中にある三角地帯で、周辺の高低差から堀跡の可能性が指摘されている。

何百年も街を見守る庭石

その奥には、指月伏見城時代の庭石とされる大小の石が並び、現代の車の往来を見守り続けている。


アクセスと周辺散策の楽しみ方

石垣展示から城外之庭まで徒歩数分

短い距離で二つの史跡を巡れるため、気軽に散策できる。

住宅街と歴史が同居する伏見散策の魅力

現代の住宅街の中に、ひっそりと戦国の記憶が残る——そんな不思議な景色を楽しめるエリアだ。


下の地図は、指月伏見城の石垣展示がある「ライオンズマンション伏見桃山指月城」から「伏見城 城外之庭」への行き方図です。短い散策で2つの史跡を巡ることができます。住宅街の中に、歴史の名残がひっそりと残る——そんな不思議な風景を楽しめるエリアです。

現地で目にできるのは、マンションの隙間や交差点の真ん中に佇む石垣や庭石。
一見すると小さな遺構ですが、その足元には豪華絢爛な城郭と月見の宴が広がっていた時代が眠っています。
現代の街並みに紛れながらも、何百年もの間この場所を見守り続けてきた石たち。
忙しい日常の合間に、そんな歴史のカケラを探しに訪れてみてはいかがでしょうか。


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